懐建可汗とは? わかりやすく解説

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懐建可汗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/27 21:48 UTC 版)

懐建可汗(かいけんかがん、生年不詳 - 866年)は、天山ウイグル王国の初代可汗。別名、パンテキン、厖特勒(ほうてぎん)[1]

概要

8世紀末からの9世紀前半にかけて、エディズ氏一族[注 1]出身の可汗が支配していたウイグル可汗国(回鶻)は勢力を拡大し充実した国力を誇っていた[3]。832年にフーテキン(彰信可汗)が可汗になると、ヤグラカル氏一族[注 1]との王位争いが内戦状態に発展した[3]。この内戦はフーテキンの敗北(自殺)により終結し、839年にヤグラカル氏一族のキチクテキン(㕎馺特勤)が可汗に就任した[3]。この内戦や、大雪や疫病流行により、人的及び牧畜・農業に大打撃を受けると、服属していた堅昆(キルギス)が反乱、840年に可汗の㕎馺特勤と宰相キュレビルが殺され、首都カラバルガスンの宮殿は略奪の上、火を放たれた[3]

同年、エディズ氏の皇子(特勒)であったパンテキンは部族十数万人、家畜百万頭を率いて、モンゴル高原から西方へ移動、841年秋にはジムサル東方からクルムのバルキュル、842年にはさらにカラシャールクチャ方面に達した[4]。同時期に南方に移動した勢力を率いていた同族のオゲテキン(烏介可汗)が推戴され可汗に就任しており、当地でパンテキンは「ヤブグ」(宰相)を称した[5]。南方移動勢力の内紛によりオゲテキンが846年に暗殺され、跡を継いでいた弟のイナンテキン(遏捻可汗)も西方に逃れ行方不明となると[6]、848年、パンテキンは自ら「可汗」位を宣言し[5]宣宗帝から温禄登里啰汩没蜜施合俱録毗伽懐建可汗に冊封された。これをもって天山ウイグル王国の建国となった[5]

この後、トルファン青海周辺地域、甘州からチベットを、天山山脈北部山麓地域のマナスウルムチビシュバリクからキルギスを、順次ぞれぞれ駆逐した[5]

天山山脈北部山麓地域からのキルギス駆逐を指揮したボコテキンが、866年に懐建可汗を殺害[7]。ボコテキンが次代の可汗に就いた[8]

脚注

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注釈

  1. ^ a b エディズ氏、ヤグラカル氏とも東ウイグルの有力氏族(十姓ウイグル)の一つ[2]。ヤグラカル氏がウイグル可汗国の可汗を代々出していたが、795年にエディズ氏一族に可汗位が移った[2]

出典

参考文献


先代
天山ウイグル王国可汗
初代: 848年 - 866年
次代
ボコテキン



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