アフガニスタン・インド侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 05:40 UTC 版)
「チンギス・カンの西征」の記事における「アフガニスタン・インド侵攻」の解説
詳細は「モンゴルのインド侵攻」を参照 ジャラールッディーン・メングベルディーは、カーブルの近郊でのパルワーンの戦いに勝利し、インドを目指したがインダス河畔の戦いでモンゴル軍に大敗した。 西方の新興国、ホラズム・シャー朝を開戦後わずか約2年で破ったモンゴル軍であったが、アムダリヤ川を越えた後、急に無秩序な戦闘を始め、無意味な虐殺を行ったりする。これはあまりにもあっけなくホラズム・シャー朝が壊滅した結果、十分な計画・準備を整える間もなく、逃走するホラズム軍に引きずられる形でホラーサーン・アフガニスタン方面に入り、戦局が泥沼化したことが原因ではないか、という指摘がモンゴル帝国史を専門とする杉山正明らによってなされている。 この頃のモンゴル軍の損害としては、ジャラールッディーンによってパルワーンの戦いでシギ・クトク率いるモンゴル軍が大敗を喫したこと、バーミヤーン包囲戦でチャガタイの嫡子モエトゥケンが流れ矢を受けて戦死したことなどがあげられる。もともとモンゴル軍とはいっても生粋のモンゴル兵(モンゴル高原出身の騎兵)は少なく、現地で投降した兵が多かった。そのため、モンゴル軍の戦法は基本的に味方の損害を避けるやり方が多く、これらの損害はモンゴル人の上層部にとって衝撃的なものだった。これらの報復として、バーミヤーンにはチンギス・カンにより「草一本も残すな」という命令が出たとされ、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、などといった古代からの大都市も略奪され、完全に破壊されたとされる。 ジャラールッディーンを追撃しつつ、南下したモンゴル軍はインダス川のほとりにおいてようやくジャラールッディーンを追い詰め、インダス河畔の戦いが行われたが、肝心のジャラールッディーンは川を渡って逃げ去ってしまう。
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