アフガニスタン侵攻での役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:34 UTC 版)
「ユーリ・アンドロポフ」の記事における「アフガニスタン侵攻での役割」の解説
アフガニスタン民主共和国への軍事介入の是非が議題となった1979年3月の政治局会議の時点でアンドロポフは介入に反対していた。国際社会からの批判や今後予定されていたアメリカのジミー・カーター大統領との戦略兵器制限交渉に影響を与えるのではないかと懸念したためである。しかし同年10月にアフガン革命評議会議長のヌール・ムハンマド・タラキーが暗殺されハフィーズッラー・アミーンが権力を掌握するとその考えを改めた。アンドロポフはアミーンをCIAの工作員とみなし、アミーンの下にアフガンに親米政権が樹立されソ連に対する脅威となる事態は避けたいと考えた。そして「いかなる状況でもアフガニスタンを失うことはできない」と、ドミトリー・ウスチノフ国防相と共に軍事介入を主張し、同年12月24日にソ連軍はアフガニスタン侵攻を開始した。同侵攻は結果としてアンドロポフの懸念通り、1980年のモスクワオリンピックへの西側諸国のボイコットを招き、一部にはソビエト連邦の崩壊に繋がったと考える人もいる。
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