アフガニスタン入国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 08:48 UTC 版)
「ジョサイア・ハーラン」の記事における「アフガニスタン入国」の解説
シムラーに滞在した後、イギリスとパンジャーブの境界線であるサトレジ川の最先端であるルディヤーナーへハーランは移った。パンジャーブのマハラジャであるランジート・シングの下に入ることを決めた。パンジャーブに入る要請の返事を待っている間、追放されたドゥッラーニー朝のシャーであるシュジャー・シャーと会い、結局その下に入った。シュジャー・シャーからの財政援助を得て、ハーランはインダス川に沿ってアフガニスタンのペシャーワルからカーブルへ入った。そして彼は追い出そうとしているドースト・ムハンマド・ハーンとカーブルで会った。 ペシャーワルでは、インド太守のジャバー・ハーン(ドースト・ムハンマド・ハーンの弟)と会った。ジャバー・ハーンは、ドースト・ムハンマドのライバルであるシュジャー・シャーから見ると同盟国として考えられる重要な人物である。ジャバー・ハーンの下に留まっている間、ハーランはドースト・ムハンマドの影響力があまりにも強いと理解した。そしてアフガニスタンの外部から影響を及ぼすことが必要だった。彼はパンジャーブでそれを探すことにした。
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