アフガニスタン・パキスタン問題担当特使への就任
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「リチャード・ホルブルック」の記事における「アフガニスタン・パキスタン問題担当特使への就任」の解説
詳細は「バラク・オバマ政権の南アジア外交政策(英語版)」を参照 国連大使離任後長らく民間でのNGO活動などを続けていたホルブルックであったが、2004年の大統領選挙の際には民主党大統領候補に指名されたジョン・ケリー上院議員のアドバイザーを務めたほか、4年後の2008年の大統領選挙の際にも、民主党指名候補の座を争っていたヒラリー・ローダム・クリントン上院議員(当時)の支援者・アドバイザーとして選挙キャンペーンに参加した。2008年の選挙キャンペーンは、クリントンがライバルであるバラク・オバマ上院議員(当時)に敗北するという形で終わったが、ホルブルック自身はその後2009年1月に、本選挙での当選を果たし大統領となったオバマからの指名を受け、アフガニスタン・パキスタン問題担当特別代表(特使)に就任、公職へと復帰した。なお、オバマ政権発足当初はマデレーン・オルブライトらと共に、クリントン政権発足時に続き再び国務長官候補に名前が挙がったとされているが、国務長官のポストにはオバマと民主党大統領候補の座を争ったクリントンが指名され、国務長官就任は再度叶わなかった。 特使として彼は、国連での タリバンとの和平交渉を担当する特使ポスト新設に向けた動きを支援しようとするダグラス・ルート(英語版)将軍 の動きを封じたとされる。また、オバマ大統領にアメリカ軍の増派や援助の増強などを進言すると共に、自らも特使として専門家などを集めた独自の政策立案チームを結成し、総勢1,000人を超える外交官や民間人をアフガニスタンに送り込むなど、主に民生支援の分野について人材の結集と派遣による政策立案・遂行を図った。 アフガニスタンの復興・安定化に向けた政策については、基幹産業である農業の育成が重要であると考えており、マザー・ジョーンズ(英語版)誌のデイヴィッド・コーン記者の質問に対し、「今ワシントン(アメリカ政府)が採ることができる最もコスト対効果の高いアフガニスタン安定化政策は、過去に同様のケースで採られてきた政策に倣い、アフガンの農業セクターを生産性が高く利益が得られる輸出品目を作ることによって成長させることだ。過去の成功例に倣えば、アフガンは資金や雇用を得ることができ、それが国家の安定にも繋がる」と答えている。また、アフガニスタンの一部地域などで盛んに行われている麻薬(特にケシ)の栽培については、「抜本的な再検討」が必要であるとし、アフガン政府などが行っている厳しい取締り政策は失敗するだろうと述べるなど、厳しい取締り一辺倒な対策には懐疑的な見方を示していた。 紛争自体の解決と和平については、この紛争で軍事的勝利を得ることは無理だと考えており、なおかつ「タリバンをアル・カーイダから引き離すことは可能だ」と考えていたことなどから、タリバンも和平交渉プロセスに参加させるという「政治的解決」が必要だと考えており、彼らを和平交渉に参加させるべく交渉を行うと共に、ハーミド・カルザイ大統領率いる現政権側にも、政治的混乱を収拾し、タリバンとの政治的解決を目指すよう強く求めていた。 しかし一方で、ホルブルックの能力や経験をもってしても、アフガニスタンに安定をもたらすことは難しかったのではないかと見る向きもある。彼は、アフガニスタン政府のトップであるカルザイ大統領との折り合いが悪く、良好な関係を築けていなかったとされる。また、2009年のアフガン大統領選挙(英語版)では、大規模な不正があったとしてピーター・ガルブレイス(英語版)国連アフガニスタン担当次席特別代表らと共に選挙のやり直しを検討すべきだと主張し、ガルブレイスの上司であり、公正な選挙による民主主義の実現よりもまず治安安定を優先しようとするカイ・エイデ首席特別代表などと対立した。この選挙不正疑惑をめぐっては、最終的にガルブレイスが潘基文・国連事務総長によって解任される事態に発展している。このような状況から、前述のマザー・ジョーンズ誌のコーン記者は、「ホルブルックは、(アフガンの安定化に)何も進展をもたらさなかった」と評している。
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