西遼侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 05:40 UTC 版)
「チンギス・カンの西征」の記事における「西遼侵攻」の解説
詳細は「モンゴルの西遼征服」を参照 1204年にチンギス・カンがナイマン部族を征服した後、1208年にナイマンの族長タヤン・カンの子であるクチュルクは西遼(カラ・キタイ)に亡命する。西遼の皇帝である耶律直魯古はクチュルクに将軍の地位と自身の娘を与え、モンゴル帝国への備えとしようとした。 しかし耶律直魯古は人望がない上に暗愚であり、属国であったホラズム・シャー朝や西カラハン朝、天山ウイグル王国などに次々と独立をされていた。1211年にホラズム・シャー朝と西カラハン朝が再び反乱を起こすと、耶律直魯古は軍に命じてサマルカンドを包囲させるものの、今度は西遼軍不在の間にクチュルクが西遼本国で反乱を起こす。一度はクチュルクを撃退した耶律直魯古であるが、反撃を許し捕縛され、幽閉されてしまう。この簒奪の時点で西遼は事実上滅亡した。 1218年、西遼がほぼ自滅に近い形で滅び、その多くがモンゴル帝国の領土になると、モンゴル帝国とホラズム・シャー朝は直接領土を接することとなった。同年、ホラズムの東方国境近くのオトラルで太守イナルチュクによってチンギス・カンが派遣した通商団が虐殺され、この事件の報復を理由にしてモンゴル帝国はホラズム・シャー朝への遠征を決定したといわれる。しかし、後述のようにホラズムへの遠征はかなり計画的なものであり、このことから通商団はモンゴルのスパイであり、この理由はきっかけにしか過ぎないという説もある。
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