西遼の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:14 UTC 版)
1125年、遼が金によって滅ぼされると、その一部を率いた耶律大石がモンゴル高原において可汗を称したが、1130年にまた金の攻撃を受けて中央アジアに逃れてきた。耶律大石はまずビシュバリクを拠点とする天山ウイグル王国を臣従させ、1132年には天祐皇帝に即位して西遼を建国した。この頃にカルルクも西遼の支配下に入ったものと思われる。 1134年、カルルクはカンクリとともに反乱を起こしたが、耶律大石によって鎮圧された。耶律大石はこの地の北辺を西遼の直轄地と定め、ベラサグンへ遷都し、ベラサグンをグズオルドと改称した。以降も、カルルクは西遼(カラ・キタイ)の属国となる。
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