ハミルトン外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 23:48 UTC 版)
「アレクサンダー・ハミルトン」の記事における「ハミルトン外交」の解説
ハミルトンは、13邦(人口は約270万人)が独立するに当たって、大国である英国(人口2,000万)とフランス(人口2,700万)の係争や戦争に巻き込まれないよう、アメリカ合衆国のモンロー主義の起源となった、外国とは極力関係しない“無関係主義”というべき「中立」外交を新生の小国であるアメリカ合衆国の外交における国是とした。が、それはあくまでも、建国初期の国力と国内外の情勢を判断しての、一時的・便宜的なものであった。 1793年2月の英仏戦争の勃発に際し、ヨーロッパから遠い地の利を活用して「中立」の選択を国益としたハミルトンではあったが、一般理論としては、屈辱的な平和の受諾には断固反対であった。「中立」のためにも強力な軍事力の保持が必要であることを訴えた。 「他国の野心とか敵意に対してアメリカを守る能力を連邦政府から奪ってしまうべきでない」(『ザ・フェデラリスト』第34篇) 「国家とは絶対的な不名誉に対しては意気地なく屈従してはならない(剣を抜け)」(1790年、ワシントンへの献策レター)。 1798年、ナポレオン・ボナパルトの革命フランスとの戦争という危機の到来のなかで、常備陸軍の創設と強力な海軍力(フリゲート12隻)建設に国論をまとめたのもハミルトンであった。このときの7本の論考が『見解 (The Stand)、1798年3~4月』である。そして、ハミルトンは、陸軍大将で総司令官のワシントンに次ぐ、陸軍少将となった。なお、この本格的な米仏全面戦争は、ナポレオンの譲歩で回避された。また、この『見解』で、革命フランスが狂ったイデオロギー信条に基づく侵略の野望を持ち剣でドグマを強制せんとしていると、エドマンド・バークと同様の評価をフランス革命に対して示した。
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