革命の輸出路線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 05:04 UTC 版)
ソ連等、国交がある国の多くと関係断絶、外交使節団交換など交流があった国はアルバニアなど数カ国に過ぎず、10年以上の実質的な鎖国状態を招いたため、中華人民共和国の文化や経済の近代化は大きく遅れた。 このような中で、紅衛兵が長年の盟友北朝鮮の金日成主席を「修正主義者」と批判し、中朝関係が冷え込んだことがあった(なお、北朝鮮も焚書、三大革命赤旗獲得運動など文革と同様の行為を多く行っている)。また、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の支配下で、(時期的には中国の内政では文革の終結時期以降にも及ぶが)自国民虐殺を行った当時のカンボジア(民主カンボジア)は、文革中から中国の親密な友好勢力であった。 エンヴェル・ホッジャ統治下のアルバニア社会主義人民共和国は中ソ対立以降、ワルシャワ条約機構を脱退し中華人民共和国へ接近。アルバニア軍には59式戦車やJ-6戦闘機など中国製の兵器が大量に配備され、また文化大革命に影響されて国内における宗教活動を全て否定する国家無神論を実施した。1971年には国連においてアルバニア決議を共同提案し、中華民国(台湾)を国連とその関連機関から追放する代わりに中国を加盟させるなど、両者は蜜月関係を築いた。しかし、翌1972年の反共的なニクソン大統領の訪中による米中接近から批判を強め、1976年にホッジャは毛沢東の葬儀に出席するも、中華人民共和国がフランコ体制下のスペインやチリのアウグスト・ピノチェトなど反共右派独裁政権とも次々に国交を樹立したことことに対して、3つの世界論を利用して「第三世界の超大国」になることを目論んでるとホッジャは批判的になり、文化大革命終結後に実権を掌握した鄧小平はアルバニアへの援助を打ち切り、両国間の関係は一気に冷却化した(中ア対立)。その後、アルバニアは「世界唯一のマルクス・レーニン主義国家」であると宣言し、1978年より完全な鎖国体制に突入した。一方でホッジャの思想に影響されたホッジャ主義が生まれ、主に第三世界の左派で毛沢東思想とホッジャ主義は互いに国際共産主義運動の主導権を握るべく、しのぎを削ることになった。 ミャンマーでは、土着のビルマ共産党が1950年代からミャンマー軍との内戦を繰り広げていたが、ミャンマーの華人社会での文革礼賛に対するミャンマー政府の取り締まりや反中国デモをきっかけとして、中華人民共和国はビルマ共産党に対する直接的な軍事支援を開始している。この軍事支援は規模が大きなものであり、物資・資金ばかりでなく、軍事顧問や多数の紅衛兵をミャンマーに派遣している。ほぼ同じ時期にビルマ共産党内では権力闘争が頻発し、古参のビルマ族出身の指導者が追放されたり暗殺されたりして、同共産党に対する中華人民共和国の指導力が強まった。それまでビルマ共産党は平野部でのゲリラ戦を展開していたのに対し、中国の介入後はシャン州・ワ州など中国に接する山岳地域に拠点を移している。これらは、結果的に長引く内戦で劣勢に甘んじていたビルマ共産党を一時的ながら復調させ、逆にミャンマー政府は、孤立主義の傾向が強いビルマ式社会主義体制にあって諸外国から有効な援助が引き出せず、苦戦を強いられる事となった。 1965年9月30日に勃発したインドネシア共産党のクーデターである9月30日事件は文革以前に勃発したため、革命の直接的な輸出ではないが、毛沢東の武装闘争・農村が都市を包囲する・人民戦争理論という毛沢東思想の影響がみられ、また、中国共産党が事件に関与していると事件直後からインドネシア当局から指摘されており、CIAは関与を示唆している。勿論中国当局は関与を否定しており、中国の公文書が公開されていないことから、現在のところ物証は存在しないが、スカルノの特使である鄒梓模は事件前に周恩来から緊急援助と武器の引き渡しがあったことを証言している。毛沢東は周辺の東南アジア諸国の友党である各国共産党に武装蜂起による革命を積極的に推奨し、それらが9月30日事件の背後にあったことは事実であり、中ソ対立の激化とベトナム戦争の本格化を受けた毛沢東は、9月30日事件の失敗により、革命の輸出という夢想を過激化させた。9月30日事件は、インドネシア国内にいる350万人にのぼる華僑・華人が経済を支配し、イデオロギーでも中国に傾斜するなど共産主義勢力の伸張に危機感を覚えたインドネシア陸軍が反転攻勢したが、このクーデターにおいて100万人以上の華僑・華人が虐殺され、それらのすべては毛沢東が妄想する世界革命の凄惨な結末であった。毛沢東は、9月30日事件失敗後の1965年11月24日に上海で以下の発言を行った。 この変化は今年2月アメリカの北爆と9月3日から10月1日にかけてのインドネシア事変から始まった。(中略)我々の政策が正しく、路線が正しくありさえすれば、人民はきっと我々とともに立ち上がる、どれだけフルシチョフがいようが、インドネシア右派がどんなに猖獗を極めようが、人民革命の局面を変えようとしてもできないことなのだ。ただ、人民の勝利はかなりの時間をへて達成されるものかもしれない。 — 『毛沢東年譜』第5巻p542-p543 詳細は「9月30日事件#中国共産党と事件の関係」を参照 ペルーのセンデロ・ルミノソは1990年代半ばまで中国共産党の「農村から都市を包囲する路線」を実践、フランスとイギリスの学生運動やニュー・レフト運動は北京とも連動し合っていた。フランスやアメリカでは、スターリンの独裁体制に対するオルタナティブな存在として中国の魅力が喧伝され、中国はアフリカ系アメリカ人公民権運動指導者を北京に招待し、アメリカの国内状況を「植民地的」と批判、アフリカ系アメリカ人公民権運動に連帯を表明したが、アフリカ系アメリカ人はアメリカの中での「植民地的」状況にあり、その国内の植民地からの解放という論理であった。 これについて楊海英は「自らのチベット侵攻と新疆や内モンゴルでの植民地的支配を無視して、他者、即ち米国の人種問題を『植民地的』と定義し、ソ連と東欧諸国やモンゴル人民共和国との相互関係を『社会帝国主義の植民地』だと貶し」、中国は国内問題を棚上げして、国際問題で正義派を演じてきたと指摘している。フランスでは高等師範学校で、ルイ・アルチュセールの教えに賛同した学生たちが、毛沢東の人民主義的な要素を取り込み、工場で働きながら抵抗運動をしたり、弾圧を受けて収監された時に監獄の状況を調査したりする等の運動を進め、アメリカではカリフォルニア州のチャイナタウンで、中国系の若者たちが紅衛兵さながらの運動(紅衛党)を展開した。 イスラム革命後のイランやイスラム教社会主義を掲げるリビアでは、中国の文革に影響を受けたイラン文化革命(英語版)とリビア文化革命(英語版)が行われ、非イスラム的な伝統文化や西洋的な教育が破壊されて経済などの停滞も招いた。
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