革命の衰退とは? わかりやすく解説

革命の衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:33 UTC 版)

カール・マルクス」の記事における「革命の衰退」の解説

しかし革命機運衰えていく一方だった。「反動本拠地ロシアにはついに革命波及せず、4月10日にはイギリスチャーティスト運動抑え込まれた。6月23日にはフランス・パリ労働者蜂起発生するも(6月蜂起)、ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いフランス軍によって徹底的に鎮圧された。この事件ヨーロッパ各国保守派勇気づけ、保守派本格的な反転攻勢狼煙となったヨーゼフ・フォン・ラデツキー元帥率いオーストリア軍ロンバルディア北イタリア)に出動しイタリア民族運動鎮圧することに成功しオーストリアヨーロッパ保守大国地位取り戻したプロイセンでは革命以来ルドルフ・カンプハウゼンやダーヴィト・ハンゼマン(ドイツ語版)の自由主義内閣発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力妥協的になっていた。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和空回りし議論続けドイツ統一のための有効な手を打てなかった。 革命破局の時が迫っていることに危機感抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣曖昧な矛盾した任務果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配内閣反動封建分子出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的行動し全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配勝ち取ることなどできないということ自覚せよ」「ベルリン国民議会泣き言並べ利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民協力なければブルジョワなど貴族の前では無力だということ知れ」とブルジョワ革命不徹底批判したマルクスの『新ライン新聞』に対す風当たり強まっていき、7月7日には検察官侮辱容疑マルクス事務所強制捜査入り起訴された。だがマルクス立場変えようとしなかったので、9月25日ケルン戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令受けたシャッパーベッカー逮捕されエンゲルスにも逮捕状出たが、彼は行方くらました新聞出資者だったブルジョワ自由主義者この頃までにほとんどが逃げ出していた。 10月12日戒厳令解除されるマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワ逃げてしまったので、マルクス将来遺産相続分まで含めた自分の全財産投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。 しかし革命派戦況はまずます絶望的になりつつあった。10月16日オーストリア帝都ウィーン発生した市民暴動同月末までにヴィンディシュ=グレーツ伯爵率いオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーン滞在中だったフランクフルト国民議会民主議員ローベルト・ブルム(ドイツ語版)が見せしめ即決裁判処刑された。プロイセンでも11月1日保守派フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵宰相就任し11月10日にはフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥率いプロイセン軍ベルリン占領して市民軍解散させ、プロイセン国議会停会させた。

※この「革命の衰退」の解説は、「カール・マルクス」の解説の一部です。
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