革命の背景
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「ドイツにおける1848年革命」の記事における「革命の背景」の解説
「ウィーン体制」、「反ユダヤ主義#ウィーン体制(1815-1848)の時代」、および「三月前期(ドイツ語版)」も参照 ナポレオン敗北以降のウィーン体制ではフランス革命以前への復古が目指された。ドイツでは、オーストリア帝国主導でかつての神聖ローマ帝国の領域にほぼ合致したドイツ連邦(Deutscher Bund)が成立した。しかし、ドイツ連邦はかつての神聖ローマ帝国の再興とはいいがたく、ナポレオン統治下の陪臣化で消滅した群小諸邦の君侯は復位できなかった。また、従来の領邦国家体制と変わらず、ドイツ解放戦争で一体となって戦い、国民的な国家を期待していたドイツ国民は失望した。ライン川西岸一帯のラインラントはプロイセン王国に割譲され、また、プロイセンはオーストリア主導に反発を強めた。 エルンスト・アルントの発案で1814年10月に諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)1周年記念式典が催され、最初のドイツ国民祝祭となった。ドイツ解放戦争に志願兵として参加した学生たちはドイツ国民の統一国家を期待していたが、ウィーン体制ではドイツの君主国諸国家への分裂を固定化されたため不満を抱いて、ブルシェンシャフト学生運動を展開した。1815年に結成されたブルシェンシャフト主流派のイエナ大学の結社は愛国心の涵養と心身練磨をはかり、ギーセン大学のカール・フォレンはドイツに自由で平等な共和国を目指した。 1819年3月には、ブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄した作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)が、ロシアのスパイとして過激派の学生に暗殺された。この事件以後、メッテルニヒは1819年9月20日のカールスバート決議で学生運動と自由主義運動の弾圧を決定し、出版法による検閲制度、大学法、捜査法などによる革命運動の取締りをドイツ連邦全土で強化した。1848年の3月革命まで出版は制限され、新聞や雑誌の発行部数は激減したが、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになった。また急進派は地下に潜り、1833年4月にはフランクフルトで衛生兵襲撃事件が起こった。 1832年のハンバッハ祭は、重税や政治的抑圧に対する社会不安の高まりを反映したものであった。ハンバッハ祭では、共和主義者が共和主義運動とドイツ語話者間の連帯の象徴として黒・赤・金(ドイツ語版)の三色(今日のドイツ国旗の配色)を採用した。 自由主義的改革運動はドイツ諸邦に広まり、革命に発展することとなった。1848年2月22日から同24日までの三日間、フランスのパリにおいて労働者や手工業者が街頭デモを行った結果、フランス国王ルイ=フィリップが退位してイギリスに亡命した、いわゆる二月革命もこれを誘発した。 ウィーンにおいて1848年3月13日に行われた大規模なデモの結果、オーストリア皇帝フェルディナント1世に仕える宰相メッテルニヒが辞任してイギリスに亡命し、これを発端として革命がオーストリアやドイツで勃発し、ヨーロッパ全体に広まった。このため、ドイツにおける諸革命を総称して三月革命 (Märzrevolution) とも呼ばれる。 ドイツ諸邦の諸君主の中には、フランス国王ルイ=フィリップの二の舞を恐れて、一時的にせよ革命勢力の要求のいくつかを受け入れた者もいた。西南ドイツでは民衆集会(ドイツ語版)や大衆デモが行われ、出版の自由、結社の自由、成文憲法、人民武装、統一議会等が要求された。
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