革命の瓦解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 15:43 UTC 版)
ただし、新王カルロ・フェリーチェはヴィットーリオ・エマヌエーレ1世を凌ぐ保守的な王として知られ、当然革命を許容しなかった。そしてカルロ・アルベルトにも反革命姿勢を明示しノヴァーラに赴くよう指令を出したが、カルロ・アルベルトはこれを無視。サントッレ・ディ・サンタローザを陸軍大臣に任命してなおも革命への同調姿勢を見せたが、最終的には3月21日に戦争の危険を感じ取ってノヴァーラに逃れている。一方ノヴァーラには王に忠実な兵士が集結しヴィットーリオ・アメデオ・サリーエ・デ・ラ=トゥール(イタリア語版)将軍が革命政府の鎮圧命令を受けていた。さらには宣戦布告を受けていた反革命主義を鮮明にするオーストリア帝国が正式にフェリーチェの要請を受けて革命鎮圧に乗り出す。これによってピエモンテ革命の首謀者たちは王室に見捨てられ、反乱者となった。 陸軍大臣サントッレ・ディ・サンタローザはこれら革命鎮圧の動きに対して、徹底抗戦の姿勢を示した。ロンバルディアに進軍してオーストリア帝国軍を迎え撃つことを考えたが、ロンバルディア貴族フェデリーコ・コンファロニエリ(イタリア語版)からはそれを思いとどまるよう忠言が届いたためそれを断念。4月初めにはオーストリア帝国軍がサルデーニャ王国内に侵入して散発的な戦闘が発生し、4月8日には決起部隊約4000名がノヴァーラで王党派と戦って全滅、これが革命崩壊の合図となった。5月9日にはアレッサンドリアをオーストリア帝国軍が占領し、10日にはヴィットーリオ・アメデオ・サリーエ・デ・ラ=トゥール(イタリア語版)将軍がトリノを占領した。これにより革命政府は解体され、指導者たちはスイスやフランスへと亡命を余儀なくされた。
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