森林破壊の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 21:48 UTC 版)
メソポタミア 古代の森林破壊は、開墾の他に建築や造船のための伐採も原因となった。最古の叙事詩ともいわれるギルガメシュ叙事詩では、レバノンスギの伐採に関する物語がある。英雄ギルガメシュはレバノンスギを求めてレバノン山脈に分け入り、森を守るフンババを殺したために主神エンリルの罰を受けた。レバノンスギは優れた木材であるため、地中海の周辺諸国によって紀元前3000年紀にはすでに乱伐されていたことが花粉の記録から判明している。このためギルガメシュが罰を受けたのは、森林保護の観点によるという解釈もある。 インダス 5000年ほど前にはタール砂漠の一帯は森林地帯だったが、ムギ類の花粉から農業が盛んになっていたことが分かる。インダス文明の遺跡からはトラ、サイ、スイギュウ、ゾウなどの図柄があるため生物種が豊富だった点がうかがえる。約4000年前からインダス文明は衰退していったが、その原因の一つに煉瓦焼成のため、周辺のタマリスクを伐採し尽くしたことによるとの説もある。また、約3500年前にパンジャブ平原のアーリア人が南下して、森林を開拓していったとされる。紀元前326年にアレクサンドル3世がインダス川に到着した時には、王の軍隊が森に隠れたという記録があり、当時はまだ森が残されていたと推測される。 古代ギリシア 古代ギリシアの哲学者プラトンは『クリティアス』において、森林伐採によってアッティカの国土が荒廃したことを問題視した。かつては肥沃な土壌があったがそれが流失し、やせ衰えたと表現している。プラトンは別の著作『国家』や『法律』においては、植樹や治水を論じている。 パエストゥム 古代ローマの都市パエストゥムは、海神ポセイドンの名をあやかったポセイドニアと呼ばれた古来から造船で栄えていたが、船を造るための木を伐採しすぎたため、洪水の多発化や沿岸部の湿地化、蚊の繁殖によるマラリアの蔓延が起きるようになり、沿岸部の都市を放棄した。 中世ヴェネツィアと森林破壊 海の女王として栄えた中世のヴェネツィア共和国では、農業の他に海上貿易に必要な輸送船や艦船を建造するための木材確保が重要だった。森林資源の枯渇が進むにつれて木材の確保に苦しむようになり、森林資源の保護や木材の使用を制限する法律が出されるようになった。 産業革命 18世紀後半にイギリスからはじまった産業革命の背景の1つに森林破壊が関わっている。銃砲製造のための製鉄材料として木炭の消費が急激に増加したことによりイギリス国内の森林資源の枯渇が進み、代替燃料として当時はまだ扱いが困難だった石炭について、コークスが発明されたことによる、木炭からの転換が進められた。いわば必要に迫られての技術革新が産業革命をおこすきっかけの1つとなった。 植民地主義 イギリスはプラッシーの戦い(1757年)以降にインドの植民地支配を進め、インドの森林を農地に変えて輸出用の換金作物を栽培させた。最大の換金作物は茶だった。また、海軍の船材のためにチークが大量に伐採され、インド総督は1855年にチークと類似の樹木が植民地政府の所有であると定めた。インド大陸の各所に鉄道の敷設が始まると、橋や枕木のために森林が伐採された。1914年には軍需の伐採も増え、地元住民と森林局の対立も起きた。鉄道が敷設されて輸送手段が確立すると、さらに奥地のタライ地方のサラソウジュやヒマラヤ山麓の森林も伐採された。インドは国土の約8割が森林だったと推定されるが、イギリスの植民地支配開始時期の森林面積は66%となり、インド独立(1947年)の直後は40%になっていた。チーク、サラソウジュ、ビャクダンをはじめ伐採されてマラバール海岸のチークの森林はほぼ消滅した。森林が減少した影響で各地で洪水、渇水が起きた。 製紙業 製紙でパルプの材料とする樹木が伐採され、再生産のペースを超えた過剰な伐採は森林破壊につながる場合がある。フィリピンは1950年代には森林面積が国土の75%を占めていたが、日本向けの木材輸出が1960年代から行われて1980年代末には25%となった。マレーシアも日本向けの有数の木材輸出国であり、ボルネオ島を中心に伐採が急増した。2014年時点で日本が輸入するコピー用紙の約8割が、インドネシアから来ているともいわれる。
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