日本への文革の輸出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:24 UTC 版)
詳細は「日中共産党の関係」を参照 中国共産党と日本共産党との関係にも亀裂が生じた。毛沢東は「日本共産党も修正主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文化大革命をやれ」と革命の輸出路線に基づく意見を述べた(無論「意見を述べた」だけに止まらず、この毛沢東の号令を合図に中国共産党と中国政府機関を動員した対日干渉が始まった。日中貿易、北京放送、「日本の真の共産主義者」への国家機関からの財政援助など)。 日本共産党は内政干渉として関係を断絶、激しい論争となった。その一方、日本共産党内から日本共産党路線に反対し、文革を賛美し、日本での文革引き写しの暴力革命持ち込みを掲げた分派が生まれ、発覚と同時に党から除名された。その最初のものが、山口県委員会から移行した左派の日本共産党である(“県委員”機関クラスの知己仲間内のことであり、同県の党組織は即座に再建されている)。 ほかにも当時の日本において毛沢東思想が新左翼の一部で流行していた。山岳ベース事件やあさま山荘事件を起こした連合赤軍も武装蜂起、軍による遊撃戦争、農村による都市の包囲を謳い、「軍隊」による武装闘争を掲げたマオイスト集団であり、リーダーの永田洋子は遊撃戦の革命根拠地を求めて妙義山にアジトをつくり、委員長の森恒夫は「銃口から政権が生まれる」さながらに「銃による殲滅戦」を掲げ、拠点になる秘密基地を作るための関東の山岳地帯への移動を、毛沢東にならって「長征」と称すほどであった。 詳細は「毛沢東思想」を参照 日本共産党は中国共産党側の対日内政干渉態度への自己反省がないことから関係断絶していたが、その後1998年に、「誤りを誠実に認めた中国共産党側の態度」によって日中共産党は32年ぶりに関係を修復している。 日本共産党と疎遠となったことで、日本の左派における影響力を保持したかった中国共産党はこれ以降必然的に日本社会党との関係を強化していくことになる(親中派以外の新左翼は元来ソ連や中国などの既存の社会主義体制に批判的であったため)。 文革中は中国の外文出版社発行の日本語雑誌である『人民中国』、『北京周報』、『中国画報』や『毛選(毛沢東選集)』などの出版物や北京放送などの国際放送で文革を礼賛する対日世論工作の宣伝がなされ、それらの購読者・聴衆者や日中友好協会の活動を通じて、安保阻止運動や米軍基地反対闘争などの社会運動に影響を及ぼし、また学生運動の武闘化傾向を助長し、新左翼運動の理論的根拠となった。
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