日本への普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 17:28 UTC 版)
記録に残る日本で最も古い水球の試合は、1907(明治40)年8月5日に第二回関東連合游泳大会において東京高等師範学校(現・筑波大学)と第一高等学校(現・東京大学)が館山(千葉県)で行ったものとされる(東京高等師範学校友会誌、第14号、pp.116、1907)。1915(大正4)年には慶應義塾水泳部内にウォーター・ポロ・チームが結成され、同年8月15日には、神奈川県葉山海岸の会場に特設されたフィールドで横浜外人クラブと試合を行った。結果は、9対0の大差で慶應義塾が負けたが、これが日本国内で記録に残っている最初の国際試合となった。 1925(大正14)年には、大日本水上競技連盟の主催で10月10 - 12日の3日間に渡り「全日本選手権水上競技会」が開催され、ウォーター・ポロ競技が公式競技として初めて実施された。本大会には、慶應義塾(関東代表)、東京ウォーターポロ倶楽部(東海代表)、帝国水友会(近畿代表)の3つのチームが出場し、玉川プールで行われた。10月中旬とあって水温が低く過酷な条件での試合となったが、寒さによく耐えた東京ウォーターポロ倶楽部が優勝し、次いで慶應義塾、帝国水友会の順となった。 1932(昭和7)年6月にはロサンゼルスオリンピックに初めて日本がナショナルチームを派遣し、国際大会デビューを果たした。しかし現実は厳しく、オリンピック大会では5カ国が出場して日本は3試合を行ったが、対アメリカ合衆国戦 (0-10)、対ハンガリー戦 (0-18)、対ドイツ戦 (0-10) と惨敗し世界との差を見せ付けられた。
※この「日本への普及」の解説は、「水球」の解説の一部です。
「日本への普及」を含む「水球」の記事については、「水球」の概要を参照ください。
日本への普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:55 UTC 版)
「チュンジー」も参照 シャンチーが日本に伝来した時期は明らかではないが、沖縄諸島には比較的早い時期に伝来したものと考えられる。沖縄地方に伝わる盤上遊戯である「チュンジー」はシャンチーとほぼ同じルールである。1972年(日本と中華人民共和国との間の国交が回復した年でもある)に『近代将棋』誌でシャンチーの紹介がなされた ことで、日本の将棋愛好家を中心にシャンチーが知られるようになった。 1973年には将棋棋士の大山康晴を中心に「日中象棋協会」が結成され、翌年から日本国内でも同協会による全日本選手権が毎年開催されるようになった。1991年には国際組織に加盟するために協会を改組し、名称を「日本シャンチー協会」と改めた。この際、改組に反対する一部の役員が脱退し、全日本選手権の分裂開催を画策するなどの混乱も見られたが、関係者の尽力により分裂開催は回避されている。日本シャンチー協会は、改組した翌1992年にアジアシャンチー連合会に加盟し、1993年に発足した世界シャンチー連合会にも発足と同時に加盟している。
※この「日本への普及」の解説は、「シャンチー」の解説の一部です。
「日本への普及」を含む「シャンチー」の記事については、「シャンチー」の概要を参照ください。
日本への普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 00:04 UTC 版)
「マンドリンオーケストラ」の記事における「日本への普及」の解説
日本にマンドリンが伝えられたのは、1894年四竈訥治がイギリス人にマンドリンを贈られ演奏したのが最初といわれている。1901年には比留間賢八が留学先のイタリアからマンドリンを持って帰国し普及に尽力した。詩人萩原朔太郎が比留間に師事しマンドリンを演奏していたのは有名。 1915年に武井守成がシンフォニア・マンドリーニ・オルケストラ(後のオルケストラ・シンフォニカ・タケヰ)を設立し、指揮者に瀬戸口藤吉や大沼哲や菅原明朗を招いている(菅原は1930年代以降マンドリン界から一時離れるが、1960年代より復帰し関西マンドリン合奏団に多くの曲を提供する)。オルケストラ・シンフォニカ・タケヰは演奏のみならず研究誌の発刊やコンクール開催などを行い、マンドリン音楽の発展に尽力した。音楽教育者齋藤秀雄のキャリアは、オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ主催の合奏コンクールで、オルケストル・エトワールを指揮して入賞したことから始まっている。 また大学でもマンドリンクラブが相次いで設立されるようになり、1910年には慶應義塾・同志社で、1913年には早稲田大学で、1917年には関西学院で、1921年には九州帝国大学(現在の九州大学)・北海道帝国大学(現在の北海道大学)で、1923年には明治大学でマンドリンクラブが設立されている。後年のマンドリン音楽の発展には社会人の団体だけではなく、学生団体も大きな役割を果たすことになる。戦時中は各団体とも活動が停滞するが、戦後の復興とともに再びマンドリン音楽も盛んとなる。 以上の各団体はいずれもイタリア式のマンドリンオーケストラを範とした編成や選曲を志向しており、戦前はイタリアが同盟国であったこと、戦後もイタリアのようにプロパガンダに利用されなかったことが幸いして温存され、現在に至っている。 1960年代より各大学のマンドリンクラブでは部員数が急増し、それまでマンドリンクラブがなかった大学でも続々と創設されるようになる。しかしレパートリーの中心であったイタリアのマンドリンオーケストラ曲はいずれも小規模アンサンブル向きで、マンドリンオーケストラの大規模化は新たなレパートリーを生み出すことを必要とした。その要請に応えたのが中央大学マンドリンクラブ・立命館大学マンドリンクラブ技術顧問鈴木静一、慶應義塾マンドリンクラブ常任指揮者服部正、関西学院大学マンドリンクラブ・京都女子大学マンドリンオーケストラ技術顧問大栗裕らであり、彼らの作曲したマンドリンオーケストラ曲は管楽器や打楽器を含んだ大規模なものである。また同志社大学マンドリンクラブ技術顧問中野二郎と甲南大学マンドリンギタークラブ・梅花女子大学マンドリンクラブ技術顧問松本譲は忘れ去られていた戦前のイタリアの管弦楽曲や吹奏楽曲を発掘し、マンドリンオーケストラ用に編曲して大幅なレパートリーの増加をもたらした。 1970年代には上記の作編曲家の活動に加え、東海学生マンドリン連盟に加盟する各大学が新曲の委嘱を活発に行うようになる。名古屋大学ギターマンドリンクラブは帰山栄治と、愛知学院大学マンドリンクラブは鈴木静一と、愛知教育大学マンドリンクラブは川島博と、名城大学ギターマンドリン合奏団は大栗裕と、中部工業大学(現在の中部大学)マンドリンクラブ・名古屋学院大学マンドリンクラブは熊谷賢一と、岐阜大学ギターマンドリンクラブは藤掛廣幸と関係が深く、東海学生マンドリン連盟合同演奏会はマンドリン界に現代的な新風をもたらした。 しかし1980年代以降、マンドリン人口が減少しはじめ、1990年代には大規模曲の演奏が困難になる団体も出てくるようになった。そのため日本人の作品は小規模化の傾向を見せるようになる。またこの頃から小規模アンサンブル向けのドイツのツプフ・オーケストラ曲が紹介されるようになり、重要なレパートリーとなりつつある。現在多くの団体では大規模曲と小規模曲が共存している状態である。
※この「日本への普及」の解説は、「マンドリンオーケストラ」の解説の一部です。
「日本への普及」を含む「マンドリンオーケストラ」の記事については、「マンドリンオーケストラ」の概要を参照ください。
- 日本への普及のページへのリンク