プネー条約の締結と開戦への動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/26 20:18 UTC 版)
「第三次マラーター戦争」の記事における「プネー条約の締結と開戦への動き」の解説
この動きはイギリスに察知され、1817年6月13日にバージー・ラーオ2世に対して、新たな条約プネー条約を押し付けた。これは以下のような内容だった。 いかなる場合においても、イギリス以外の外国との外交交渉を行ってはならない またそれを保証するために、外交使節を他国に派遣すること及び他国の外交使節を受け入れることを禁じる 外国との交渉はイギリス東インド会社の駐在官を通してのみ行うこと これは形式上においても実質的においてもマラーター同盟の解体を認めさせるものだった。また、イギリスが当時押し進めていたインド諸侯の藩王国化そのものであった。条約締結後、イギリスの駐在官マウントステュアート・エルフィンストーンは、バージー・ラーオ2世に主力である騎兵隊を解散するように要請し、彼は騎兵隊を解散した。 だが、バージー・ラーオ2世は騎兵隊をいつでも出動できるようにしており、すでに7ヵ月分の給料を支払っていた。また、その武将バープー・ゴーカレーに戦争を準備させていた。その一方、彼自身はイギリスの目を盗み、シンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家に同盟を要請した。 10月19日、バージー・ラーオ2世はヒンドゥーの祭礼を祝った。この時、彼の騎兵大隊はイギリス側のセポイを攻撃しようとしたが、土壇場で止められたという。これはエルフィンストーンに対する威嚇でもあった。もはや、イギリスとマラーター同盟の争いは避けられないものとなっていた。 マラーター側は戦争の準備をすすめ、全軍で歩兵81,000 兵、騎兵106,000 兵、589門の大砲を用意していた。その兵力の内訳は、宰相バージー・ラーオ2世は騎兵28,000兵、歩兵14,000兵、大砲37門とマラーター勢の中では一番で、ホールカル家は騎兵20,000兵、歩兵8,000、大砲107門、シンディア家は騎兵15,000兵、歩兵16,000平、大砲140門、ボーンスレー家は騎兵15,000兵、歩兵18,000、大砲85門であった。トーンク(ラージャスターン)のナワーブであるアミール・ハーンもマラーター側につき(彼は第二次マラーター戦争では、途中裏切ってイギリスについた)、その兵力は騎兵12,000兵、歩兵10,000兵、大砲200門であった。 これとは別にマラーターの諸侯はピンダーリーの首領らとも連携を取り、その軍勢もまた大軍であった。ピンダーリーの数はシンディア家に味方するピンダーリーが2万、ホールカル家に味方するピンダーリーは25,400人であった。
※この「プネー条約の締結と開戦への動き」の解説は、「第三次マラーター戦争」の解説の一部です。
「プネー条約の締結と開戦への動き」を含む「第三次マラーター戦争」の記事については、「第三次マラーター戦争」の概要を参照ください。
- プネー条約の締結と開戦への動きのページへのリンク