民主主義との対照
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 06:12 UTC 版)
「アメリカ合衆国の共和主義」の記事における「民主主義との対照」の解説
エリスとネルソンは、マディソンからリンカーン、さらにその後の憲法思想の多くは「多数派専制の問題」に重点を置いてきたと論じている。彼らは、「憲法に埋め込まれた共和制政府の原則は、憲法起草者が、生命、自由および幸福の追求という不可分の権利を多数派によって奪い取られないようにした努力を表している」と結論付けた。特にマディソンは小さな地方に偏った多数派が不可分の権利を脅かすことを恐れ、「ザ・フェデラリスト」第10篇では、共和国の人口が多くなればなるほど、より多様になり、この脅威が少なくなると論じた。ジェファーソンは、「選挙で選ばれた専制政治は、我々がそのために戦った政府ではない」と警告した。 1800年にはすでに、「民主主義者」という言葉がもっぱら連邦党の対向者を攻撃するために使われていた。ジョージ・ワシントンは1798年に、「黒人を磨いて白人にするように、原則を民主主義にかえることもできる。この国の政府を転覆させるために試さないものは何も無くなるだろう。」とこぼしていた。「ザ・フェデラリスト」は、民主主義が多数派によって少数派の権利に抵触することを認めるので、純粋な民主主義は極めて危険なものであるという考え方に染まっていた。かくしてマディソンは、各州に新憲法の下で強力な中央政府に参加するように求め、比較的弱かった連合規約に新憲法を置き換えることを推奨する中で、「ザ・フェデラリスト」第10篇では、特別な関心が小さな地域、すなわち1つの州を支配するかもしれないが、それが容易に大きな国を支配できることにはならないと論じた。それ故に国が大きければ、それだけ共和主義はより安全になると述べた。 1805年までに、南部共和主義者の中で、ジョハン・ランドルフ、カロラインのジョン・テイラーおよびナサニエル・メイコンに率いられた少数派閥である「オールド・レパブリカン」あるいは「クイッド」は、ジェファーソンとマディソンが弱い中央政府にすると言っていた真の共和制を放棄したという根拠で、二人に反対するようになった。
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