民主主義、世俗国家および軍事独裁
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「ジャイール・ボルソナーロ」の記事における「民主主義、世俗国家および軍事独裁」の解説
1998年12月2日に雑誌Veja誌のインタビューの中で、3,000人以上の人民と20万人の亡命者を虐殺したチリのピノチェト政権について、「もっと多く殺すべきだった」と述べた。ピノチェトを経済発展の基礎を築いたと称えるボルソナーロに対してチリのセバスティアン・ピニェラ大統領は「ブラジル側のピノチェト体制賞賛は極めて不幸なことだ」と苦言を呈した。 また、立法と司法に対する軍事介入のモデルとして、1999年のペルーのフジモリ大統領を称賛した。「拷問」を有利にするプログラム(Câmera Aberta)を承認し、 民主主義を「糞―merda」と呼んだ。さらに、もし彼が大統領だったならば「間違いなく議会を閉鎖し」、「同日中に打撃を与える」と述べた。おなじ時期、自身がなぜ元大統領フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ(PSDB)の銃殺刑を擁護したのか司会者ジョ・ソアレスに述べ、「総合資源開発企業ヴァーレと電気通信を民営化して、石油備蓄を外部資本に供給することは最悪だからだ」と説明した。 独裁政権がブラジルの歴史において「輝かしい時代」だったと主張している。 サンパウロの新聞(Folha de São Paulo)の新聞に掲載された公開書状によれば、軍事政権下を「秩序と進歩の20年」と呼んでいる。また、「独裁者の間違いは拷問はしたが、殺さなかったことだった」と述べた。ボルソナーロはメディア、政治家、反=拷問団体(Grupo Tortura Nunca Mais)から批判され、事務所のドアに軍の独裁政権の被害者家族たちは「骨を探している犬」と書いたプラカードを吊るした。1993年、同国が民主化してからわずか8年後、「軍事政権のみがより繁栄し、持続可能なブラジルにつながる」と述べた。2015年3月、1964年の軍事クーデター51周年の日に自らのブログに事件を祝う画像とテキストを掲載した。 ボルソナーロははクーデターが「民主的介入」の結果ではなく、「民衆弾圧の成果」であり、1968年に中国とキューバで学んだゲリラ戦術を使って攻撃を開始したと主張した。 2016年4月17日、ルセフ大統領の解任手続きを行ったエドアルド・クーニャ下院議員を祝福し、「元大統領の障害」についてスピーチし、カルロス・アルベルト大佐に敬意を表した。カルロスは軍事独裁政権時の拷問者の1人として司法長官に認められた最初の兵士であり、元大統領の拷問者でもある。 こののち、検察庁は弾劾投票時のボルソナーロのデモストレーションの内容について17,853人の抗議を受けたため、事件を調査するための内部調査することを決定したと報告した。この態度はまた2016年6月、議会倫理評議会のプロセスをもたらした。彼は議会の品格に欠けるとして非難された。評議会は「緑の党」によって代表され、拷問を非難し、国会議員の辞職をもとめた。これに対してボルソナーロは、弾劾票決時の声明は議会の免除によって保護されていると主張した。 彼の息子、下院議員エドアルド・ボルソナーロ(PSC-SP)が公表したビデオでは「暴力は暴力と戦っている、人権の旗と戦っているのではない」と述べ、国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルの擁護者たちは「悪党」と「馬鹿」によってつくられ、承認されているとした。ブラジルの警察がおこなう殺人が世界で最も多い(2015年に3,345人)問題について、「私はブラジルの軍事警察はもっと殺すべきだと考えている」と述べた。 2017年2月のカンピナ・グランデでの演説では、次のように言って世俗国家(Estado laico)を批判した。「神は世俗国家の歴史をもっていない。国家はキリスト教であり、それに反するのが少数者だ。……少数者は多数者に合わせなければならない」。 2020年10月9日にはこの日が命日であるチェ・ゲバラを「彼の遺産は社会ののけ者や麻薬使用者、左翼のくずどもしか鼓舞しなかった」とツイッターで罵った。 アメリカのジャーナリスト、グレン・グリーンウォルドは、「民主主義の世界で選ばれた女性嫌悪(ミソジニー)な公職者」と称した。オーストラリアのNews.com.auのサイトは、ボルソナーロを「世界で最も不愉快な政治家」とも呼んだ。
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