民主カンプチアとクメール・ルージュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:02 UTC 版)
「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「民主カンプチアとクメール・ルージュ」の解説
クメール・ルージュ政権は謎に包まれた用語アンカル(「組織」)を採用し、1977年まで指導部の陣容は明らかでなかった。公式の国家元首は、キュー・サムファンだったが、党を支配する二人は、ポル・ポトとイエン・サリであった。クメール・ルージュの究極の目標は、カンボジア国家の構造を消し去ることにあり、資本家を封建主義者とみなし、土地所有者と帝国主義者の双方の議題について議論した。その過程で、もっぱら労農階級を基礎とした無階級社会を作ることを望んだ。クメール・ルージュの急進的な思想と目的は、大衆と相容れない考え方であった。事実、共産主義革命は全くと言ってよいほどに大衆への訴求力がなかった。この革命は、超国家主義的な主張や、抑圧的で残忍な支配を用いるポル・ポトらの幹部を生み出し、彼らのプロパガンダは、カンボジアへの希薄な支配を維持するベトナムを悪者扱いすることを目論んでいた。 1970年-1975年の5年に及ぶクメール・ルージュの反乱では、彼らと中国との緊張関係が生じ、クメール・ルージュに対する北ベトナムの支援は、最終的な勝利に向けて不可欠なものであった。しかしベトナム戦争終結前でさえ、クメール・ルージュと(アメリカの支援するロン・ノルが国家元首となっている政権から、権力を奪い取る過程において)ベトナムの関係は、緊迫したものであった。ベトナム共産党とクメール・ルージュ軍の衝突は1974年には既に始まっていて、翌年ポル・ポトはクメール・ルージュと中国の「友好関係」を成文化した条約に署名した。
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