ロストフ防勢作戦
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「ロストフの戦い (1941年)」の記事における「ロストフ防勢作戦」の解説
ドネツ炭田-ロストフ戦略的防勢作戦(1941年9月29日から11月16日)の一つとして行われたソ連軍の反撃は南方軍集団司令官にルーマニア軍戦区の更なるソ連軍の襲撃に対する第1戦車軍の作戦行動を強いた。そしてソ連2個軍(第9軍、第18軍)を包囲し、10月5日から10日の一部が脱出に成功したチェルニゴヴカ辺りでの包囲突破中にソ連第18軍指揮官スミルノフ中将が戦死した。 10月11日、ドイツ軍はまだ目標攻略を果たしていなかったが、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは「アゾフ海での戦闘は成功に終わった」と宣言した。 その後、ドイツ第11軍はクリミア半島へ戻り、ペレコプ地峡で作戦に従事するよう命令された。 これらの戦いにより、ロストフとコーカサスへの道が開いたと認め、ヒトラーは第11軍から第1装甲軍に任務を移す命令を出し、準備不足のルーマニア第3軍、イタリアアルペン軍団、スロバキア自動車化旅団が配属された。 再編成後、ドイツ第III装甲軍団、第XIV装甲軍団が、クリミアより到着した第XLIX山岳軍団の支援を受けて先鋒を勤めた。 1941年10月17日までに第14装甲師団はミウス川(Mius river)を渡河、タガンロクは占領された。同時に、スターリノ(ドネツ炭田地区)に山岳部隊が侵入、新設のソ連第12軍は撤退を余儀なくされた。 しかし、秋雨が始りソ連軍には幸運だった。悪名高い泥濘は第1装甲軍の前進を「メートルずつ」に遅くした。このことはドイツ軍が11月中旬までロストフ郊外に到達できなかったことを意味していた。そしてその間、ドイツ軍はソ連軍との接触を失っていた。 11月17日、ドイツ軍はロストフへ攻撃を開始、21日には占領した。しかし、ドイツ軍の戦線は拡大しすぎていた。そのため、フォン・クライストは軍の左側翼が危機に晒されていること、さらに配下の戦車部隊がロシアの冬の中では効果的戦闘ができなかったことを警告していたが、これは無視された。
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