ロストフ要塞の建設
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「ロストフ・ナ・ドヌ」の記事における「ロストフ要塞の建設」の解説
ロストフ・ナ・ドヌの街の始まりは1749年12月15日とされている。ピョートル1世の娘で当時のロシア皇帝だったエリザヴェータの命令で、ドン川の支流テメルニク川のほとりの「ボガトゴ・コロデゼヤ」(Богатого колодезя、豊かな井戸)にオスマン帝国との交易を管理する税関が建てられた時のことである。1756年、ロシア・コンスタンチノープル商業貿易会社がこの地に設立され、ドン川沿いの台地の上に集落を築きクペチェスカヤ・スロボダ(商人の町)と名付けた。1760年から翌年にかけてオスマン軍の侵攻に備えて税関からほど近い場所に要塞が建てられ、1761年に皇帝エカチェリーナ2世により要塞に対して、1700年代に北方の古都ロストフの大主教を務め、当時列聖されたばかりのロストフのディミトリーにちなんでロストフの名が与えられた。砦の近くにできた集落は次第にこの地方の商業の中心になり、古来からの中心都市アゾフをしのぐようになった。1779年には砦の東方にクリミア半島から渡ってきたアルメニア人が別の集落を築き、ノル・ナヒチェヴァン(Nor-Nakhichevan)と名付けた。これは現在のロストフ・ナ・ドヌ市のプロレタルスキー地区にあたり、現在も多くのクリミア・アルメニア人の子孫が住んでいる。 1796年に集落は市の地位を与えられ、古都ロストフと区別するためにロストフ・ナ・ドヌと改名された。1797年にはロストフ・ナ・ドヌとノル・ナヒチェヴァンはともにノヴォロシースク県に属した。砦は18世紀後半には露土戦争の際のロシア軍の基地となったが、やがて重要性を失い19世紀前半にはアナパへ移された。 ドン川やアゾフ海の水運と、ロシアからカフカースへと向かう交易路が交わる地理的な位置により、ロストフ・ナ・ドヌには急速な発展がもたらされた。ロストフ・ナ・ドヌには、ドン川を下ってきたロシア中央部の人々や、黒海・地中海からのイタリア人・ギリシア人・トルコ人商人らを乗せた客船や貨物船が集まり、繁華な港へと成長してゆき工業も始まるようになった。1850年には15,000人だった人口は、20世紀初頭には110,000人へと増加した。1872年には北カフカース鉄道がロストフ・グラーヴヌィ駅に達し、カフカース方面への鉄道の拠点となった。
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