ロストフ要塞の建設とは? わかりやすく解説

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ロストフ要塞の建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 16:46 UTC 版)

ロストフ・ナ・ドヌ」の記事における「ロストフ要塞の建設」の解説

ロストフ・ナ・ドヌの街の始まり1749年12月15日とされている。ピョートル1世の娘で当時ロシア皇帝だったエリザヴェータ命令で、ドン川支流テメルニク川のほとりの「ボガトゴ・コロデゼヤ」(Богатого колодезя、豊かな井戸)にオスマン帝国との交易管理する税関建てられ時のことである。1756年、ロシア・コンスタンチノープル商業貿易会社がこの地に設立されドン川沿いの台地の上集落築きクペチェスカヤ・スロボダ(商人の町)と名付けた1760年から翌年にかけてオスマン軍侵攻備えて税関からほど近い場所に要塞建てられ1761年皇帝エカチェリーナ2世により要塞に対して1700年代北方古都ロストフ大主教務め当時列聖されたばかりロストフのディミトリーにちなんロストフの名が与えられた。砦の近くにできた集落次第にこの地方商業中心になり、古来からの中心都市アゾフをしのぐようになった1779年には砦の東方クリミア半島から渡ってきたアルメニア人別の集落築き、ノル・ナヒチェヴァン(Nor-Nakhichevan)と名付けた。これは現在のロストフ・ナ・ドヌ市のプロレタルスキー地区にあたり、現在も多くのクリミア・アルメニア人の子孫が住んでいる。 1796年集落は市の地位与えられ古都ロストフ区別するためにロストフ・ナ・ドヌ改名された。1797年にはロストフ・ナ・ドヌとノル・ナヒチェヴァンはともにノヴォロシースク県に属した。砦は18世紀後半には露土戦争の際のロシア軍の基地となったが、やがて重要性失い19世紀前半にはアナパ移された。 ドン川アゾフ海水運と、ロシアからカフカースへと向かう交易路が交わる地理的な位置により、ロストフ・ナ・ドヌには急速な発展もたらされた。ロストフ・ナ・ドヌには、ドン川下ってきたロシア中央部人々や、黒海地中海からのイタリア人ギリシア人トルコ人商人らを乗せた客船貨物船集まり繁華な港へと成長してゆき工業も始まるようになった1850年には15,000人だった人口は、20世紀初頭には110,000人へと増加した1872年には北カフカース鉄道ロストフ・グラーヴヌィ駅達しカフカース方面への鉄道拠点となった

※この「ロストフ要塞の建設」の解説は、「ロストフ・ナ・ドヌ」の解説の一部です。
「ロストフ要塞の建設」を含む「ロストフ・ナ・ドヌ」の記事については、「ロストフ・ナ・ドヌ」の概要を参照ください。

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