ケルチ半島 - 1943年冬とは? わかりやすく解説

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ケルチ半島 - 1943年冬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:02 UTC 版)

クリミアの戦い (1944年)」の記事における「ケルチ半島 - 1943年冬」の解説

ドイツ第17軍クリミア半島への撤退直後から、ソ連黒海軍集団イワン・ペトロフ大将)によるケルチ半島の上作戦準備進められた。ペトロフ計画は、第56軍をケルチの東15kmYenikaleへ、第18軍ケルチの南約20kmのエルチゲンへ同時に上陸させ、タマン半島にある重砲支援するというものであった。しかし、適切な上陸用舟艇欠いていて、戦車重火器揚陸が困難であることは、1941年と変わらなかった。さらに、輸送使える船も不足していた。陸軍参謀総長アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は、ケルチ半島の上作戦中止してクリミア半島北部集中すべきだ意見したが、スターリン却下された。ペレコープ地峡での作戦同時に進めるために、ケルチ半島の上作戦は、本来は11月1日予定されていたが第56軍の準備遅れて準備ができた第18軍の上作戦だけが先に行われることになった10月31日夜、第18軍318山岳ライフル師団の約5700人はエルチゲンへ向かったが、船団機雷原つっこみ上陸部隊司令官乗った船を含む2隻は沈没し、さらにドイツ軍砲兵斉射浴びたソ連軍の上陸予定地点偵察は不十分で、上陸予定地点には砂洲があり、砂洲海浜の間の水深約2.7メートルの海を45メートル近く渡る必要があったが、フル装備兵士数百人は溺れた結局上陸できたのは約2900人で若干の45mm対戦車砲迫撃砲がある以外は携行火器しかなかった。アールメンディンガーは、これは牽制攻撃に過ぎない推断して、掃討為に1個大隊強を派遣したが、ソ連空軍地上攻撃タマン半島からの砲撃により、ドイツ・ルーマニア軍の橋頭堡への攻撃大きく妨害された。11月1日の夜もソ連第18軍上陸部隊送り、約3200人近く上陸した11月2日時点で、橋頭堡は、幅2.5km、縦深800mほどしかなかった。橋頭堡ソ連軍兵員数では、包囲するドイツ・ルーマニア軍より大幅に優勢だった戦車重火器はまったくなかった。 準備遅れていた第56の上作戦11月3日夜、4日未明行われたドイツ軍上陸作戦検知し砲兵砲撃行った上陸止めることはできず、約4000人がケルチ半島東端部に上陸した夕刻までには、第56軍は、橋頭堡を、幅13km、縦深8kmにまで拡大した。第56軍の橋頭堡は、Chushka砂洲にある600門近い重砲ロケット砲強力な砲兵支援受けていた。ドイツ側では、2つ橋頭堡のうち、より弱体なエルチゲンの橋頭堡片付けたのちに、全力北の橋頭堡に対処する方針になった。しかし、11月7日行われた、ドイツ・ルーマニア軍のエルチゲン橋頭堡への攻撃空軍支援の相当がペレコープ地峡振り向けられていた為失敗し橋頭堡除去することはできなかった。ドイツ第17軍からの強い要請応えてドイツ海軍は、SボートおよびRボートからなる水上部隊での海上パトロール強化するとともに37mm砲や20mm砲を装備したMFPでエルチゲン橋頭堡対す海上封鎖始めたドイツ海軍は、ケルチ半島ソ連軍への補給を断つことは出来なかったが、はじめから船腹不足していたソ連軍は、補給苦しむようになった。 クリミア上空では、ソ連空軍は、戦闘機数で対抗するドイツ空軍に対して10倍近い量的優勢だったが、ドイツ側には、JG52第II飛行隊(約40機のBf109G)がバゲロヴォ飛行場にあり、隊長ゲルハルト・バルクホルン大尉をはじめ、屈指のエース揃っていたので、ソ連空軍クリミア半島上空で完全航空優位達成できなかった。 11月10日に、ケルチ半島ソ連軍は、由緒ある独立沿岸軍の名前になり、ペトロフ直接指揮を採ることになったペトロフは、エルチゲン橋頭堡拡張余地乏しいことを悟り新規増援はすべて、北の橋頭堡に振り向けることにした。12日に、独立沿岸軍は攻勢出てケルチ郊外到達したがそこでドイツ軍阻止された。 12月4日に、ルーマニア第6騎兵師団ルーマニア第3山岳師団部隊は、ドイツ空軍ドイツ軍突撃砲支援のもと、エルチゲン橋頭堡攻撃した12月7日朝、ソ連軍防衛線は破れ一部部隊は、北の橋頭堡に向かい包囲網破り打って出た。しかし、この部隊も、途中で阻止殲滅され、12 月7日にエルチゲン橋頭堡除去された。これ以降戦線膠着状態に陥ったスタフカから戦線突破催促されていたペトロフは、1月10日アゾフ分艦隊使ってドイツ軍戦線後方ターパン岬へ上陸作戦行い、約1700人が上陸した。しかしこれらの部隊重火器欠いており、ドイツ軍にとって脅威とならず主戦側から上陸部隊連結する試み阻止され上陸部隊翌日ドイツ軍粉砕された。22日海軍歩兵の2個大隊は、アゾフ分艦隊支援のもと、ケルチ港に直接上陸したターパン岬の時と同じ様に主戦線からの連結試み跳ね返され数日後には上陸部隊は、やはりドイツ軍により殲滅された。スターリンがこれらの失敗を知ると、2月6日ペトロフ解任降格となり、アンドレイ・エリョーメンコ後任充てられた。

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