ケルチ半島 - 1943年冬
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「クリミアの戦い (1944年)」の記事における「ケルチ半島 - 1943年冬」の解説
ドイツ第17軍のクリミア半島への撤退直後から、ソ連黒海軍集団(イワン・ペトロフ大将)によるケルチ半島への上陸作戦準備は進められた。ペトロフの計画は、第56軍をケルチの東15kmのYenikaleへ、第18軍をケルチの南約20kmのエルチゲンへ同時に上陸させ、タマン半島にある重砲で支援するというものであった。しかし、適切な上陸用舟艇を欠いていて、戦車や重火器の揚陸が困難であることは、1941年と変わらなかった。さらに、輸送に使える船も不足していた。陸軍参謀総長のアレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は、ケルチ半島への上陸作戦は中止して、クリミア半島北部に集中すべきだと意見したが、スターリンに却下された。ペレコープ地峡での作戦と同時に進めるために、ケルチ半島への上陸作戦は、本来は11月1日に予定されていたが第56軍の準備は遅れて、準備ができた第18軍の上陸作戦だけが先に行われることになった。 10月31日夜、第18軍第318山岳ライフル師団の約5700人はエルチゲンへ向かったが、船団は機雷原につっこみ上陸部隊司令官の乗った船を含む2隻は沈没し、さらにドイツ軍砲兵の斉射を浴びた。ソ連軍の上陸予定地点の偵察は不十分で、上陸予定地点には砂洲があり、砂洲と海浜の間の水深約2.7メートルの海を45メートル近く渡る必要があったが、フル装備の兵士は数百人は溺れた。結局、上陸できたのは約2900人で若干の45mm対戦車砲と迫撃砲がある以外は携行火器しかなかった。アールメンディンガーは、これは牽制攻撃に過ぎないと推断して、掃討の為に1個大隊強を派遣したが、ソ連空軍の地上攻撃とタマン半島からの砲撃により、ドイツ・ルーマニア軍の橋頭堡への攻撃は大きく妨害された。11月1日の夜もソ連第18軍は上陸部隊を送り、約3200人近くが上陸した。11月2日の時点で、橋頭堡は、幅2.5km、縦深800mほどしかなかった。橋頭堡のソ連軍は兵員数では、包囲するドイツ・ルーマニア軍より大幅に優勢だったが戦車や重火器はまったくなかった。 準備が遅れていた第56軍の上陸作戦は11月3日夜、4日未明に行われた。ドイツ軍も上陸作戦を検知して砲兵が砲撃を行ったが上陸を止めることはできず、約4000人がケルチ半島の東端部に上陸した。夕刻までには、第56軍は、橋頭堡を、幅13km、縦深8kmにまで拡大した。第56軍の橋頭堡は、Chushka砂洲にある600門近い重砲とロケット砲の強力な砲兵支援を受けていた。ドイツ側では、2つの橋頭堡のうち、より弱体なエルチゲンの橋頭堡を片付けたのちに、全力で北の橋頭堡に対処する方針になった。しかし、11月7日に行われた、ドイツ・ルーマニア軍のエルチゲン橋頭堡への攻撃は空軍の支援の相当がペレコープ地峡へ振り向けられていた為失敗し、橋頭堡を除去することはできなかった。ドイツ第17軍からの強い要請に応えて、ドイツ海軍は、SボートおよびRボートからなる水上部隊での海上パトロールを強化するとともに、37mm砲や20mm砲を装備したMFPでエルチゲン橋頭堡に対する海上封鎖を始めた。ドイツ海軍は、ケルチ半島のソ連軍への補給を断つことは出来なかったが、はじめから船腹が不足していたソ連軍は、補給で苦しむようになった。 クリミア上空では、ソ連空軍は、戦闘機数で対抗するドイツ空軍に対して10倍近い量的優勢だったが、ドイツ側には、JG52第II飛行隊(約40機のBf109G)がバゲロヴォ飛行場にあり、隊長のゲルハルト・バルクホルン大尉をはじめ、屈指のエースが揃っていたので、ソ連空軍はクリミア半島上空で完全航空優位を達成できなかった。 11月10日に、ケルチ半島のソ連軍は、由緒ある独立沿岸軍の名前になり、ペトロフが直接指揮を採ることになった。ペトロフは、エルチゲン橋頭堡が拡張の余地に乏しいことを悟り、新規の増援はすべて、北の橋頭堡に振り向けることにした。12日に、独立沿岸軍は攻勢に出て、ケルチの郊外に到達したがそこでドイツ軍に阻止された。 12月4日に、ルーマニア第6騎兵師団とルーマニア第3山岳師団の部隊は、ドイツ空軍とドイツ軍突撃砲の支援のもと、エルチゲン橋頭堡を攻撃した。12月7日朝、ソ連軍防衛線は破れ、一部の部隊は、北の橋頭堡に向かい包囲網を破り打って出た。しかし、この部隊も、途中で阻止殲滅され、12 月7日にエルチゲン橋頭堡は除去された。これ以降、戦線は膠着状態に陥った。 スタフカから戦線突破を催促されていたペトロフは、1月10日にアゾフ分艦隊を使って、ドイツ軍戦線後方のターパン岬へ上陸作戦を行い、約1700人が上陸した。しかしこれらの部隊は重火器を欠いており、ドイツ軍にとって脅威とならず、主戦線側から上陸部隊と連結する試みは阻止され、上陸部隊は翌日、ドイツ軍に粉砕された。22日、海軍歩兵の2個大隊は、アゾフ分艦隊の支援のもと、ケルチ港に直接上陸した。ターパン岬の時と同じ様に、主戦線からの連結の試みは跳ね返され、数日後には上陸部隊は、やはりドイツ軍により殲滅された。スターリンがこれらの失敗を知ると、2月6日にペトロフは解任・降格となり、アンドレイ・エリョーメンコが後任に充てられた。
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