ケルティック・ディアスポラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 14:23 UTC 版)
「ケルト諸語圏」の記事における「ケルティック・ディアスポラ」の解説
詳細は「アイルランド人#海外への移住」を参照 カナダ、オンタリオ州タムワースにあるパーマネント・ノース・アメリカン・ゲールタハトは、アイルランド国外にある唯一のゲールタハトである。アルゼンチンのパタゴニア、チュブ州の谷にあるY Wladfaは、ウェールズ語を話す人々が暮らす。ノバスコシア州のケープ・ブルトン島には、カナダ・ゲール語を話す人々がいる。そしてニューファンドランド島南東部には、アイルランド語を話す人々がいる。1900年代の一時点において、ルイス島出身のスコットランド・ゲール人12000人以上がケベック州のイースタンタウンシップスで生活していた。イースタンタウンシップスの地名は今現在もこれらの住民を思い起こさせるものとなっている。 アメリカの太いベルト地帯はケルト諸語圏からの移住者が集まる先となった。アイルランド語を話すアイルランド人のカトリック教徒は、東海岸の都市、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアに集まった。一方でプロテスタントのスコットランド人やアルスター・スコッツは、アパラチアを含むアメリカ南部で特に顕著な存在であった。 エリザベス朝時代に広まった伝説では、マドック(Madoc)という名のウェールズのプリンスが12世紀後半の北アメリカに植民地をつくったというものがある。移住者たちは現地のインディアン部族と同化して、数百年の間ウェールズ語とキリスト教信仰を維持し続けたと物語は続く。しかし、マドックというプリンスが実在したという現代的な根拠はない。ペンシルバニア州の、ウェルシュ・トラクトとして知られる地域はウェールズ人のクエーカー教徒が入植したところで、いくつかの町は今もウェールズ語の名を冠している。19世紀、ウェールズ人移民たちがパタゴニアのチュバ川谷に到着し、Y Wladfaをつくった。現在、Y Wladfaのいくつかの町ではウェールズ語や、ウェールズ語の名がついたティーハウスが一般的である。ドラヴォンやトレレウはウェールズ移民の町である。 南アフリカの詩人ロイ・キャンベルは自伝の中で、ピーターマリッツバーグ近く、住民がゲール語とズールー語だけを話していたダーグル谷での子供時代を回想している。 ニュージーランドでは、オタゴ地方とサウスランド地方にスコットランド自由教会の信徒が移住した。この2つの地方の地名の多くが(ダニーディンやインヴァーカーギルといった主要都市やクラサ川といった主要河川のように)、スコットランド・ゲール語の名である。そしてケルト文化は現在もこの地域で顕著である。 上記の事例に加え、カナダ、アメリカ合衆国、オーストラリア、南アフリカやかつての大英帝国の一部の出身者たちが、何年にもわたって様々なケルト協会を組織してきた。
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