池田末男とは? わかりやすく解説

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池田末男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 02:19 UTC 版)

池田 末男(いけだ すえお、1900年(明治33年)12月21日 - 1945年(昭和20年)8月18日)は、日本陸軍軍人陸士34期


注釈

  1. ^ 日本1945年(昭和20年)8月15日にポツダム宣言を受諾した。
  2. ^ 相原秀起 『一九四五 占守島の真実:少年戦車兵が見た最後の戦場』(Amazon Kindle版、 PHP研究所、2017年)では、「第11戦車連隊は、九七式中戦車改(新砲塔チハ、47㎜対戦車砲)20両、九七式中戦車(チハ、57㎜砲)19両、九五式軽戦車(37㎜砲)25両、計64両を装備していた」という旨を記載している[6][9]
  3. ^ ただし、潮田のこの主張では、ソ連軍がどのような対戦車装備を持っていたと日本軍将兵らが考えていたか、全く明確でない。この占守島の戦いで対戦車に猛威を発揮したソ連軍の武器は膝射式の対戦車ライフルである。これは第二次世界大戦中、ヨーロッパ戦線で対独戦用に初めて開発されたものである。ノモンハン事件でのソ連軍の主な対戦車の戦い方は、ピアノ線の低鉄条網で日本軍戦車の車輪を絡めて停止させ、動けなくなった所を野砲で破壊する、あるいは、動いている戦車であればより強力なソ連軍戦車で撃破するというものであった。
  4. ^ 戦いは、その後、戦車第11連隊は、四嶺山の戦闘でソ連軍歩兵部隊を四嶺山から追い出したが、その代償として中隊長以上の将校11名のうち10名(池田を含む)を失い、戦車30数両のうち27両を失った(→「#戦車第11連隊の損害」)。ソ連軍の対戦車兵器による損害であるが、このような兵器の存在まで池田が分かっていたかは、疑問である。
  5. ^ 戦車第11連隊は、第91師団長の命令(ソ連軍の上陸直後)により、歩兵第73旅団長の指揮下に入っていた[26]
  6. ^ a b 戦史叢書第44巻 『北東方面陸軍作戦<2>千島・樺太・北海道の防衛』は「池田聯隊長は『戦車第十一聯隊はこれより直ちに突撃を開始する。祖国の彌榮を祈る』と師団長に対し報告したのち先頭車上から日章旗を大きく振って突撃を命令した。時刻は四時ころであろう。」[7]と記している[7]。訣別電の文言・宛先・通信手段・発信時刻に異同が見られる。
  7. ^ 0650=午前6時50分。
  8. ^ 古今東西の陸戦において「背後を突かれること」は「包囲されること」の次に恐ろしいことであり、敗北に直結する。
  9. ^ 高射砲は極めて初速が大きいため、低い弾道を高速で飛翔する高射砲弾には、弾道付近の敵兵を「飛翔するエネルギーだけで圧殺する」威力があった[28]
  10. ^ a b 帝国陸軍において、連隊附佐官(中佐または少佐)は、連隊の次席指揮官であり、「副連隊長」と表現できる立場であった。
  11. ^ a b 各部将校(例:戦車第11連隊軍医長 木下不二夫 軍医少佐[21])は、階級を問わず指揮権を有さない。
  12. ^ a b 戦車第11連隊の指揮権を継承した伊藤大尉陸士55期)の氏名を、戦史叢書44巻『北東方面陸軍作戦<2>:千島・樺太・北海道の防衛』は「伊藤力」と表記しているが([7])、伊藤大尉と親しかった陸士55期同期生が昭和48年(1973年)に『偕行』(偕行社の機関誌)に連載した追悼文では、終始「伊藤力」と表記しており([34])、「伊藤力」が正しい表記と思われる。
  13. ^ 潮田健二(陸士55期、元・帝国陸軍戦車将校)は、戦後は国際自動車工業株式会社東京都港区海岸)専務取締役を務めた[38][39]
  14. ^ a b 『偕行』は、偕行社帝国陸軍将校陸上自衛隊幹部自衛官航空自衛隊幹部自衛官らの親睦組織)の機関誌(月刊)。
  15. ^ 各中隊の小隊長たる将校(例:第3中隊 小島中尉[21])については、管見の範囲では詳細が判明しない。
  16. ^ 出典([8])には言及がないが、第5中隊長 古沢中尉(甲種幹部候補生6期、戦死)は「特別志願将校たる陸軍現役兵科将校」であったと思われる(特別志願将校については「幹部候補生_(日本軍)#任官以後」を参照)
  17. ^ 整備中隊長 高石大尉(陸軍少尉候補者出身、陸軍現役兵科将校)の卒業期別は、出典([8])に記載されていない。当時40代後半の高石大尉(連隊長の池田〈44歳〉より年長)は、ノモンハン事件(昭和15年〈1940年〉)に従軍した歴戦の士であった[21]
  18. ^ 戦車第11連隊将兵慰霊碑(第7師団史料館 中庭)に刻まれている、池田が発した訣別電の文言は「戦車第十一聯隊将兵は/四嶺山の麓にあり士気/ますます壮健なり/五時五十分 池田聯隊は直ちに敵に突入する/祖国の弥栄を祈る」である[47]
  19. ^ 占守島の戦いが終結した時点で、日本軍の医薬品や衛生材料は不足しており、負傷者に対する満足な手当は出来なかった[28]

出典

  1. ^ a b 慰霊碑を故郷・豊橋から北海道の陸自へ:「占守島の戦い」戦死の連隊長”. 中日新聞. 2023年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
  2. ^ a b 陸上自衛隊 第7師団(2023年9月7日)
  3. ^ 第11戦車隊長 2等陸佐 弓削甲司. “第11戦車隊公式サイト”. 陸上自衛隊 第11旅団 第11戦車隊. 2023年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
  4. ^ 秦 2005, p. 15, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:池田末男
  5. ^ a b c d e 大野 2010, pp. 145–152, 第4章 第91師団:連隊長の交替
  6. ^ a b c 相原 2017, 位置No. 229-256、第1章 最前線:士魂部隊-戦車第十一連隊
  7. ^ a b c d e f g h i 戦史叢書 1971, pp. 568–570, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:戦車第十一聯隊の反撃
  8. ^ a b c d e 潮田 1973d
  9. ^ 相原 2017, 位置No. 256-285、第1章 最前線:主力戦車-九七式中戦車と九五式軽戦車
  10. ^ 中山 2001, p. 28
  11. ^ a b c d e 潮田 1973c
  12. ^ 戦史叢書 1971, p. 558
  13. ^ a b c 戦史叢書 1971, pp. 561–567, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:3 まさに水際撃滅:國端崎付近の戦闘
  14. ^ 相原 2017, 第1章 最前線:水際作戦から面式防御作戦へ
  15. ^ 戦史叢書 1971, pp. 567–568, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:3 まさに水際撃滅:第九十一師団の反撃:第九十一師団の作戦指導
  16. ^ a b c d e 相原 2017, 位置No. 870-886、第2章 終戦三日後の激戦:池田連隊はこれより敵中に突入せんとす
  17. ^ a b c 潮田 1973b
  18. ^ a b c d e f g h i j k l 『昭和史の天皇』 7、読売新聞社、1969年7月10日、32,33-34,37-38,44,46-47頁。 
  19. ^ a b c d e f 大野 2010, pp. 220–229, 第6章 決戦占守島:敵はどこに
  20. ^ a b 大野 2010, pp. 31–47, 第1章 油槽船の怪:8月15日
  21. ^ a b c d e f g h 大野 2010, pp. 209–220, 第6章 決戦占守島:特攻を覚悟する
  22. ^ 『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』勉誠出版、2020年4月2日、202頁。 
  23. ^ 「語り継ぐ戦争 2012夏 占守島の死闘」『朝日新聞』、2012年8月13日、北海道版、朝刊、23面。
  24. ^ a b c 大野 2010, pp. 242–257, 第6章 決戦占守島:死に向かう指揮官たち
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 大野 2010, pp. 229–242, 第6章 決戦占守島:艦攻隊の特攻出撃
  26. ^ 戦史叢書 1971, p. 567-568, 第2編 樺太千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:第九十一師団の反撃
  27. ^ a b 戦史叢書 1971, pp. 561–563, 第2編 樺太・千島の対ソ戦:第6章 北千島の対ソ戦:3 まさに水際撃滅:國端崎付近の戦闘
  28. ^ a b c d e f g 相原 2017, 第3章 停戦:生きて苦しめるより本人のためなんです
  29. ^ a b 戦史叢書 1971, pp. 181–182
  30. ^ 戦史叢書 1971, p. 582
  31. ^ 相原 2017, 第2章 終戦三日後の激戦:「白虎隊たらんとするものは手を上げよ」
  32. ^ 相原 2017, 位置No. 1017-1046、第2章 終戦三日後の激戦:池田連隊長の壮絶な戦死
  33. ^ 戦史叢書第044巻 北東方面陸軍作戦<2>千島・樺太・北海道の防衛”. 防衛省戦史研究室. p. 570. 2023年10月18日閲覧。
  34. ^ a b c d e f 潮田 1973a
  35. ^ 大野芳『8月17日、ソ連軍上陸す』新潮社、2010年、255-256頁。 
  36. ^ 大野 2010, p. 334
  37. ^ a b c d 大野 2010, pp. 332–337, 第8章 一犬虚に吠え、白熊貪食す:遺体が語ること
  38. ^ 「潮田保雄」『人事興信録 第23版 上』人事興信所、1966年、う61-う62頁。 
  39. ^ 「国際自動車工業(株)」『日本職員録 第14版 上』人事興信所、1972年、会社こ76頁。 
  40. ^ a b c d e f g 「花だより:陸士56期:追悼文集関係-1 元戦車第11聯隊/篠田民雄氏(陸士57期)より」『偕行』昭和43年11月号、偕行社、1968年、50頁。 
  41. ^ a b 相原 2017, 位置No. 2116-2132、第4章 抑留:守り抜かれた九十七名の遺骨
  42. ^ 『偕行』(昭和31年11月号)偕行会、1956年11月15日、20頁。 
  43. ^ 相原 2017, 位置No. 1597-1614、第3章 停戦:四嶺山での遺体回収
  44. ^ a b c d e 「戦後78年:『北海道を守った戦い 知ってほしい』:占守島の戦い慰霊碑 千歳の駐屯地へ」 『産経新聞』(東京本社)2023年8月18日付朝刊、12版、22面、社会面。
  45. ^ a b 占守島の戦禍伝える慰霊碑:豊橋から北海道へ移設”. 東愛知新聞 (2023年6月2日). 2023年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月22日閲覧。
  46. ^ a b c d e ソ連が北海道占領を断念した一因か、終戦3日後から「占守島の戦い」…遺族が慰霊碑寄贈”. 読売新聞 (2023年8月18日). 2023年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月18日閲覧。
  47. ^ a b 占守島の慰霊碑、北海道へ:遺族寄贈、陸自が一般公開”. 共同通信社 (2023年8月17日). 2023年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月18日閲覧。
  48. ^ a b c 占守島の激戦 千歳へ:慰霊碑、旧陸軍遺族が寄贈、陸自駐屯地に移設:写真や名刺300点も”. 北海道新聞 (2023年8月3日). 2023年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月18日閲覧。
  49. ^ a b c 占守島の戦い知って:東千歳駐屯地に慰霊碑移設”. 苫小牧民報 (2023年8月17日). 2023年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月19日閲覧。
  50. ^ 『風塵抄』(中央公論社)、村井重俊「週刊朝日」
  51. ^ a b c 早坂隆 (2015年11月25日). “1945年、占守島…日本を分断から救った男たち”. WEB歴史街道. PHP研究所. 2019年7月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月29日閲覧。


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