攻撃(第2回)、戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 02:21 UTC 版)
戦車第11連隊の稼働可能な全戦車が概ね揃った(歩兵は依然としてゼロ、工兵は若干名。)、07:30頃、池田は2回目の攻撃を下令した。 この時、池田は将校と車長を集めて下記のように訓示した。 われわれは大詔を報じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。そこで皆に敢えて問う。諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとするものは手を上げよ。 — 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男、『戦車第十一連隊史』より、 戦車第11連隊は、07:50頃に2回目の攻撃を開始した。09:00頃、ソ連軍の対戦車ライフル部隊の至近距離からの集中射撃を受けた連隊長車が搭載弾薬の誘爆によって炎上し、池田は連隊長車の全乗員と共に戦死した。44歳没。 09:30頃まで続いた2回目の攻撃では、増援として独立歩兵第283大隊(大隊長:竹下三代二 少佐。竹下大隊。)が戦闘加入したこともあり、戦車第11連隊はソ連軍を蹂躙し、上陸地点である竹田浜の方向に押し返すことに成功した。その代償として、同連隊は連隊長の池田をはじめとして多くの将校を失い、最先任者となった第4中隊長の伊藤力男大尉(陸士55期)が同連隊の指揮権を継承した。約4時間の激戦により、同連隊の戦死者は97名に上り、戦車27両を失った。 戦闘終結後に行われた遺体収容作業により、女体山と六九高地の中間地点で擱座している連隊長車が発見された。連隊長車の中から半焼死体が発見されたが、戦車第11連隊軍医長が「連隊長なら奥歯に金冠がかぶせてある」と指摘したことで池田の遺体であることが確認できた。
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