隊史
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「第84戦闘飛行隊 (アメリカ海軍)」の記事における「隊史」の解説
第84戦闘飛行隊(以下VF-84)は1955年7月1日にオシアナ海軍航空基地(英語版)でFJ-3装備の飛行隊として創設された。当初はVagabonds(放浪者)というニックネームであったが、1959年4月15日にVF-61ジョリーロジャースが解隊されたため、そのニックネームとスカル&クロスボーンのマーキングを引き継ぎ、VF-84ジョリーロジャースが誕生した。当時の使用機種はF-8クルセイダーであったが、1964年にF-4に機種変更し、翌年にベトナム戦争に参加、トンキン湾上の空母インディペンデンスから作戦を行った。その後、1976年にF-14に機種変更し、翌年12月からVF-41とともにCVW-8として空母ニミッツ艦上に展開した。 1980年にはニミッツとともに映画『ファイナル・カウントダウン』に出演し、一躍有名となる。翌1981年からはTARPSの運用を開始し、これ以降は偵察任務もこなすようになる。 1988年にはニミッツが大西洋艦隊から太平洋艦隊に転属したため、母艦を「セオドア・ルーズベルト」に変更した。また、1991年の湾岸戦争時にはVF-84はペルシャ湾に展開、艦隊上空の戦闘空中哨戒や攻撃隊の護衛、TARPSを使用した爆撃効果判定に従事した。 その後、冷戦終結後の海軍部隊削減計画の一環として1995年10月1日にVF-84は解隊された。削減の対象となったのは主にTARPS非装備の飛行隊であり、本来ならばVF-41が解隊されるはずだったが、当時の大西洋艦隊航空団司令がVF-41出身だったためにVF-84が解隊される事になったという。 解隊後、ジョリーロジャースのニックネームとスカル&クロスボーンのマーキングはVF-103に引き継がれた。
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隊史
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「リュッツォウ義勇部隊 (解放戦争)」の記事における「隊史」の解説
1813年から1814年にかけての冬、ナポレオンのロシア遠征が惨憺たる結果に終わると、プロイセン王国では状況が一変し、強制の下で結ばれたナポレオンとの同盟は破棄へと転じていく。 宮廷ではプロイセンの陣営転換の準備が進められた。1810年からベルリンで体操や水泳教育を促進し、秘密結社のドイツ同盟 (de:Deutscher Bund (Geheimbund)) を結成していたフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン (Friedrich Ludwig Jahn) とフリードリヒ・フリーゼン (Friedrich Friesen) は宰相のハルデンベルクに、全てのドイツ諸邦から参じた志願兵が、ナポレオンと戦うための義勇軍を募るよう迫る。 この時、そのような部隊の創設が合意されたと見られる。なぜなら国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がゲルハルト・フォン・シャルンホルスト少将から内密に、またリュッツォウ少佐から正式に、本人を指揮官とする義勇部隊の創設を請願される前の1813年1月29日、ヤーンとフリーゼンはブレスラウの集合場所に到着していたからである。同地で彼らは志願兵を募り、予期される人々の殺到に備えて全ての準備を整えていた。リュッツォウの部隊は1813年2月に公式の承認の下、プロイセンの正規部隊として「王立プロイセン義勇部隊」(Königlich Preußisches Freikorps)と名付けられ、創設された。 同隊、またこれに続く義勇部隊創設の法的根拠となったのは、義勇猟兵部隊の設立に関する1813年2月3日の最高内閣令 (de:Kabinettsorder) である。リュッツォウの部隊の通称、「リュッツォウアー」や「黒の猟兵」もここに由来するものの、同隊の内、実際の猟兵の数は少なかった。 1813年6月5日に発効した休戦協定が、リュッツォウの耳に届いたのは6月9日であった。彼はこの時、総勢400名の歩兵と騎兵を率いて敵の戦線の後方、プラウエン近郊に居た。協定の条件に従い、3日以内にそこから退去するのを躊躇い、彼は部下とともにライプツィヒ方面に向かう。フランソワ・フルニエ=サルロヴェーズ (François Fournier-Sarlovèze) 将軍指揮下の、数の上で優勢なフランス軍およびヴュルテンベルク軍 (Württembergische Armee) 騎兵がキッツェン (Kitzen) で行く手を阻み、1813年6月17日に警告なく来襲した。リュッツォウの騎兵の一部は殺戮されたが、歩兵の大部分は逃れる。 およそ150名の「リュッツォウアー」が捕えられるが、捕虜として扱われず、フランス軍からは「黒い盗賊」(bandits noirs)と見なされた。リュッツォウと副官のテオドール・ケルナー (Theodor Körner (author)) は重傷を負い、ようやくのことで逃げ延びている。続いてザクセン(特にフォークトラント (Vogtland) 、)テューリンゲン、バイエルンを襲撃した後、部隊は1813年の「秋の遠征」に参加し、エルベ川を下流に向かって進み、コサックとともにブレーメンを制圧した。 しかしフランスの援軍が接近すると、その町からの迅速な撤収を強いられている。その後は、ほとんどコサックとともにヴェストファーレン、シュレースヴィヒ=ホルシュタインおよびライン川付近を転戦した。騎兵の一部は1814年初頭、ネーデルラントやフランス北東に投入されている。それに先立つ1813年8月、テオドール・ケルナーはメクレンブルク (Mecklenburg) のガーデブッシュ (Gadebusch) における戦闘で、フリードリヒ・フリーゼンは1814年3月にアルデンヌで没した。 1814年、連合軍がパリに入城しナポレオンが退位すると、プロイセン国外からの志願兵は解雇され、残存兵力から第25歩兵連隊と第6ウーラン連隊が創設された。そして1815年3月、ナポレオンが追放先から帰還すると、かつて「リュッツォウアー」であったこれらの連隊も再び動員される。リュッツォウは第6ウーラン連隊の指揮官として同年6月15日、リニーの戦い (Battle of Ligny) で重傷を負い、捕虜となった。どちらの連隊も6月18日、ナポレオンの最終的な敗北に繋がったワーテルローの戦いに参加している。
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隊史
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1809年初頭、スペインにおける民衆蜂起を背景としてオーストリアとフランスの新たな戦争が勃発すると、1807年のコルベルク防衛戦 (Siege of Kolberg (1807)) に参加して人気を博したシル少佐は、遊撃戦を通じてプロイセンをもナポレオン・ボナパルトの支配から解放するべく義勇部隊の結成を決断する。 1809年4月28日、彼は口実を設けて指揮下のフザール連隊とともにベルリンを去り、その意図を発表した。少し後、コルベルク (Kołobrzeg) 防衛戦に参加していた士官らに率いられベルリンの守備隊から500名が合流したものの、期待されていた北ドイツからの参加者は現れなかった。1809年5月5日、この義勇部隊はドーデンドルフで戦う (de:Gefecht bei Dodendorf) 。シルはその後、シュトラールズントの制圧に成功する。しかし、プロイセン国王と政府から見れば、彼は脱走者であった。そのため、彼は軍事的・政治的な支援は受けられなかった。また期待していた民衆の蜂起は起こらず、イギリスからの増援も得られなかった。約1500名の兵とともに彼はホラント王国のピエール・ジェローム・グラシアン (fr:Pierre Guillaume Gratien) 少将に敗れ、1809年5月31日、シュトラールズントで市街戦の末に戦死する。 指揮下の士官11名はフランス軍の軍法会議に掛けられ、死刑を宣告されると1809年9月16日、ヴェーゼル (Wesel) で銃殺された。彼らに敬意を表し、1835年にカール・フリードリヒ・シンケルが設計した記念碑がヴェーゼル市内のリッペヴィーゼに設置された。シルに味方して戦ったスウェーデン軍の士官、ペーターソン (de:Friedrich Gustav von Petersson) のために、石碑と銘板がシュトラールズント、クニーパー門 (de:Kniepertor) の、フランス軍が銃殺を執行した現場に設置されている。
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