隊の結成とは? わかりやすく解説

隊の結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/17 13:39 UTC 版)

振遠隊」の記事における「隊の結成」の解説

江戸時代には、長崎港警備佐賀藩福岡藩隔年交代行ってきたが、元治元年1864年)にその制度廃止された。また、開国により出島留められていたオランダ人や他の外国人多く長崎居住するようになったこと、坂本龍馬海援隊始め勤王佐幕両派の侍が長崎集い騒然となってきたことなどを受けて長崎奉行同年1864年8月治安の維持外国人保護のために結成した構成人員は、長崎地役人次男以下の者や、市内道場を持つ剣客とその門弟さらには浪人などであった当初は約150であったが、徐々に増加し最終的に350名ほどになった。隊名は最初警衛隊警備隊)で、長崎奉行直属し、砲隊は洋服小銃平士隊は和装剣・槍・棒・十手等を装備し唐人屋敷浜町付近西泊戸町番所勤務した慶応3年1867年)に遊撃隊改称市中警備の任に当たった。 しかし、慶応4年1868年)、鳥羽・伏見の戦い幕府軍官軍大敗したことを正月10日知った長崎奉行河津伊豆守祐邦は1月14日イギリス船に乗船し、翌早朝には長崎脱出して江戸逃れ、隊は指導者失った奉行退去した後の長崎奉行所西役所には、土佐藩佐々木三四郎海援隊の者が集まり遊撃隊襲撃備えた一時両者の間に緊迫した空気流れたが、薩摩藩松方助左衛門遊撃隊の下に赴いて説得したことで、遊撃隊と彼らとの戦闘回避されることとなったまた、奉行長崎退去を受け、長崎町年寄各藩聞役達は、朝廷から派遣される責任者が来るまでは長崎地役人駐留している諸藩人間申し合わせて諸事これまで通り取り図るという申し合わせをし、各藩兵や遊撃隊市内の治安維持に当たることになった慶応4年1868年2月15日九州鎮撫総督澤宣嘉下向し、長崎裁判所置かれ奉行所扱っていた事務引き継いだそれに伴い遊撃隊明治元年4月19日振遠隊と名を改め長崎裁判所所属することとなった

※この「隊の結成」の解説は、「振遠隊」の解説の一部です。
「隊の結成」を含む「振遠隊」の記事については、「振遠隊」の概要を参照ください。

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