佐々木高行
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佐々木 高行(ささき たかゆき、文政13年10月12日〈1830年11月26日〉- 明治43年〈1910年〉3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本の政治家[1]。爵位は侯爵。幼名は万之助、通称は三四郎。初名は高喜(たかあつ)、高春(たかはる)と称し、高行(たかのり)に改名した後に、現在の名称に改名した[2]。佐佐木高行とも表記される。土佐三伯の1人(他に板垣退助・後藤象二郎)。著作である日記『保古飛呂比』は幕末・維新期の第一級資料として知られる[3]。
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「佐々木高行」
- ^ 臼井、P469。
- ^ 小学館 精選版 日本国語大辞典
- ^ 『殉難録』原稿巻之47.1〜2頁
- ^ 朝日新聞社、P739、霞会館、P667。臼井、P469。
- ^ 朝日新聞社、P739、笠原、P18 - P36、P47 - P57、P73 - P77、P108 - P125、臼井、P469、瀧井、P30 - P44、伊藤、P200 - P201、P218。
- ^ 朝日新聞社、P739、笠原、P125 - P152、P168 - P169、臼井、P469、鈴木、P229 - P236、伊藤、P221 - P224、P226 - P229。
- ^ 朝日新聞社、P739、笠原、P169 - P187、臼井、P469、伊藤、P229 - P232、P237。
- ^ 朝日新聞社、P739、臼井、P469、鈴木、P237 - P251、伊藤、P257、老川、P83、P89 - P93、P95 - P97、P108 - P113、P153、P158 - P159。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、18頁。
- ^ 朝日新聞社、P739、臼井、P469、伊藤、P313 - P314、P326、P331、P357 - P358、P367 - P368。
- ^ 『官報』第1134号「叙任及辞令」1887年4月14日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 「参議大山巌福岡孝弟佐々木高行元老院議長佐野常民特旨ヲ以テ勲一等ニ叙ス・附岩倉右大臣大山福岡佐々木三参議親授式執行」 アジア歴史資料センター Ref.A15110025200
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第7194号「叙任及辞令」1907年6月24日。
- ^ 『官報』第7751号「叙任及辞令」1909年4月30日。
- ^ 霞会館、P667。
- ^ a b c d 加賀美繁子『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 加賀美光賢(読み)かがみ みつかたコトバンク
- ^ 加賀美照太郎(読み)かがみ てるたろうコトバンク
- 1 佐々木高行とは
- 2 佐々木高行の概要
- 3 生涯
- 4 栄典
- 5 参考文献
佐々木三四郎(佐々木高行)
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「お〜い!竜馬」の記事における「佐々木三四郎(佐々木高行)」の解説
土佐藩・大監察。史実では郷士に対しても寛大だった海援隊の理解者とされているが、本作では完全に郷士を見下しており、後藤が竜馬と手を組んだ後でもそのことに納得せず、竜馬を認めなかったが、大政奉還案を聞かされた際には流石に感服していた。
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