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山田新一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/01 14:52 UTC 版)

山田新一郎

山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治元年8月1日〉 - 1946年昭和21年〉3月2日[1])は、日本の教育者内務官僚神職政友会系官選鳥取県知事

経歴

筑前国夜須郡秋月春小路で、秋月藩士・山田正修(まさのぶ)、清(せい)の長男として生まれる。1886年杉浦重剛の称好塾に入塾し薫陶を受けた。1887年第一高等中学校を卒業。さらに1890年7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業[1]。同月24日、法制局試補となる[2]

1893年鹿児島高等中学造士館教授となる。1895年静岡県参事官に転任。以後、広島県参事官、福井県書記官青森県書記官、法制局参事官兼同書記官、大阪府書記官、東京府書記官などを歴任[1]

1906年7月、鳥取県知事に就任。産業振興に務め、寺田祐之前知事の計画を引き継ぎ境港の浚渫を実施する他、米子港などの浚渫も推進。その他、耕地整理、果樹の試験栽培などを進めた。また、1906年11月、通常県会の冒頭に予算編成方針の説明を実施し、その後の慣例となった。1908年6月、知事を休職[3]。同年7月、台湾総督府民政部総務局長に就任[4]。同府参事官に転じ、1910年に休職[1]

1912年皇典講究所幹事長となり1917年まで在任[1]。同年8月11日、北野神社(北野天満宮宮司に任じられた[5]1922年から1924年まで稲荷神社(伏見稲荷大社)宮司を兼任。1934年賀茂別雷神社(上賀茂神社)宮司に転じ1936年に退任した。その他、大日本武徳会常議員を1918年から1942年まで務めた[1]

栄典

著作

  • 『神社祭祀之意義』全国神職会、1915年。
  • 原古處先生小史』1916年。
  • 『北野神社社号要誌』1921年。

脚注

  1. ^ a b c d e f 『山田新一郎 山田テヨ 追想録』
  2. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』154頁。
  3. ^ 『新編日本の歴代知事』759頁。
  4. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』129頁。
  5. ^ 『官報』第1510号、大正6年8月13日。
  6. ^ 『官報』第6695号「叙任及辞令」1905年10月21日。
  7. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。

参考文献

  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 山田勝麿他編『山田新一郎 山田テヨ 追想録』複写版(福岡県立図書館所蔵)


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