長崎脱出とは? わかりやすく解説

長崎脱出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 02:35 UTC 版)

河津祐邦」の記事における「長崎脱出」の解説

河津奉行として着任した慶応3年当時長崎の地には海援隊全国各地からやってきた諸藩浪人達が横行し幕府権威失墜していた。同年11月6日大政奉還の報が、同12月26日には王政復古の大号令出されたことが長崎の地にも伝わってきた。そして翌慶応4年1月10日には、鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍敗戦の報が届いた。 この報に接した河津は、正月13日当時長崎港守備当番福岡藩聞役粟田貢を奉行所呼び長崎からの退去意思告げ平穏裡にことを運びたい旨を伝えた。これを聞いた粟田は、薩摩藩聞役松方助左衛門松方正義)や土佐藩士佐々木三四郎佐々木高行)を招き事後について河津と共に打合わせをした。この際河津長崎奉行所西役所にあった金子運び出そうとしたが、談判の上残していくこととなった。 翌14日河津は、西役所海岸近く不用心であるから立山役所にこれをまとめるために移転するという名目で、大掛かりな荷物の移動行なった引越し作業早朝から夜まで続き夜に引越し祝いとして、立山役所から260分の料理注文出された。しかし、この注文が突然取消されたため、立山役所近所では大騒ぎとなった同時に西役所近く薩摩屋敷でも人の出入り頻繁に行なわれていたため、町民の間で様々な憶測飛び交った。 翌15日朝、奉行所から長崎地役人主だった者たちに布告伝えられた。それは「鳥羽伏見の地で容易ならぬ事態生じたので、奉行長崎在勤支配向を召連れ江戸表へ戻ることとするその方当地の者のためにも良い判断する留守中のことは、筑前福岡藩主と肥前島原藩主に依頼しているので、この両人取計らうことになっている」というものであった。そして、地元の調役に5,000石の米と6,000両の金を託して、これを地役人らへの当面の手当とし、町方掛に米5,000石を渡し、これを市中一同への当座配当とする処置がとられていた。 河津は、奉行所引越し騒ぎ町民の眼を向けさせ、その間密かに支度をし、身辺の品を港内停泊中のイギリス船に運び、ついで守衛村尾氏次という者1人伴って西役所から出てイギリス船に乗り込んだその時彼は、洋服に靴を履き、ピストルズボン隠し持っていたという。慶応4年1月14日11時ごろのことであった。そして、翌15日早朝、その船で長崎脱出した河津長崎去った後、当時長崎にいた各藩藩士長崎地役人達が協議し政府から責任者派遣されるまで諸事行なうための協議体を作り長崎会議所称して長崎奉行所西役所をその役所とした。また、長崎奉行支配組頭中台信太郎が長崎奉行並に昇任し奉行所残務整理をした。同年2月23日中台はその役を免ぜられ(『柳営補任』)、長崎奉行所はその役目終えた後日長崎事後処理あたった各藩士達は、河津の長崎脱出を「脱去挙動脱走同様の筋」であると酷評した(『長崎県史稿』国立公文書館)。その一方彼の行動は、長崎の地での幕府軍新政府軍との武力衝突回避するためのものだったとの評価もある。

※この「長崎脱出」の解説は、「河津祐邦」の解説の一部です。
「長崎脱出」を含む「河津祐邦」の記事については、「河津祐邦」の概要を参照ください。

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