長崎脱出
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河津が奉行として着任した慶応3年当時、長崎の地には海援隊や全国各地からやってきた諸藩の浪人達が横行し、幕府の権威は失墜していた。同年11月6日に大政奉還の報が、同12月26日には王政復古の大号令が出されたことが長崎の地にも伝わってきた。そして翌慶応4年1月10日には、鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍の敗戦の報が届いた。 この報に接した河津は、正月13日、当時の長崎港守備当番の福岡藩聞役の粟田貢を奉行所に呼び、長崎からの退去の意思を告げ、平穏裡にことを運びたい旨を伝えた。これを聞いた粟田は、薩摩藩の聞役・松方助左衛門(松方正義)や土佐藩士佐々木三四郎(佐々木高行)を招き、事後について河津と共に打合わせをした。この際、河津は長崎奉行所西役所にあった金子も運び出そうとしたが、談判の上、残していくこととなった。 翌14日、河津は、西役所は海岸に近く不用心であるから、立山役所にこれをまとめるために移転するという名目で、大掛かりな荷物の移動を行なった。引越し作業は早朝から夜まで続き、夜には引越しの祝いとして、立山役所から260人分の料理の注文が出された。しかし、この注文が突然取消されたため、立山役所の近所では大騒ぎとなった。同時に西役所近くの薩摩屋敷でも人の出入りが頻繁に行なわれていたため、町民の間で様々な憶測が飛び交った。 翌15日朝、奉行所から長崎の地役人の主だった者たちに布告が伝えられた。それは「鳥羽・伏見の地で容易ならぬ事態が生じたので、奉行は長崎在勤の支配向を召連れ、江戸表へ戻ることとする。その方が当地の者のためにも良いと判断する。留守中のことは、筑前福岡藩主と肥前島原藩主に依頼しているので、この両人が取計らうことになっている」というものであった。そして、地元の調役に5,000石の米と6,000両の金を託して、これを地役人らへの当面の手当とし、町方掛に米5,000石を渡し、これを市中一同への当座の配当とする処置がとられていた。 河津は、奉行所引越しの騒ぎに町民の眼を向けさせ、その間に密かに支度をし、身辺の品を港内に停泊中のイギリス船に運び、ついで守衛の村尾氏次という者1人を伴って西役所から出て、イギリス船に乗り込んだ。その時彼は、洋服に靴を履き、ピストルをズボンに隠し持っていたという。慶応4年1月14日夜11時ごろのことであった。そして、翌15日早朝、その船で長崎を脱出した。 河津が長崎を去った後、当時長崎にいた各藩藩士や長崎の地役人達が協議し、政府から責任者が派遣されるまで諸事を行なうための協議体を作り、長崎会議所と称して、長崎奉行所西役所をその役所とした。また、長崎奉行支配組頭の中台信太郎が長崎奉行並に昇任し、奉行所の残務整理をした。同年2月23日に中台はその役を免ぜられ(『柳営補任』)、長崎奉行所はその役目を終えた。 後日、長崎で事後処理にあたった各藩士達は、河津の長崎脱出を「脱去之挙動、脱走同様の筋」であると酷評した(『長崎県史稿』国立公文書館蔵)。その一方、彼の行動は、長崎の地での幕府軍と新政府軍との武力衝突を回避するためのものだったとの評価もある。
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