関東軍の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
玉音放送が全日本軍に降伏を知らせた翌8月16日になっても満州では戦闘が継続していた。モスクワの総司令部はヴァシレフスキーに「8月14日の天皇による日本の降伏に関する通告は、無条件降伏の一般的声明に過ぎない」「ソ連軍は極東での日本への攻撃作戦を継続するべし」という命令を出して、日本軍が激しく抵抗している虎頭要塞などに猛攻を続けていた。スターリンは日本軍が抵抗を止めないことを理由にして、一気に北海道の北半分まで侵攻しようと画策していたが、トルーマンは「日本本土の全ての島にいる日本武装兵力はマッカーサー将軍に降伏するものである」とスターリンの画策を真っ向から否定した。それでもスターリンは極東ソ連軍の侵攻の手を緩めることはなく「関東軍の破砕、全満州、北朝鮮、南樺太、千島を解放せよ」と命じている。一方、関東軍司令官の山田乙三大将は17日に各部隊に停戦命令を下達し、ヴァシレフスキーに接触を試みていたが、8月19日になってようやく直接交渉による停戦が実現した。結局、国境付近で激しい戦闘はあったものの、関東軍主力は殆どソ連軍と戦闘することなく降伏し、捕虜となった将兵は70万人にも上ったが、そのうち57万人がポツダム宣言の第9条の規定に反して強制労働のためにシベリアに送られ、劣悪な環境での強制労働で7万人以上が死亡した(シベリア抑留)。日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。 満州での戦闘は終わったが、ソ連軍は樺太と千島への侵攻を続けた。樺太の戦いで樺太を占領、8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃で撃沈破されている(三船殉難事件)。千島列島にも侵攻し占守島の戦いで大きな損害を被ったものの、その後も千島列島を南下し続けた。マッカーサーの回想によれば、連合軍のソ連代表であったクズマ・デレビヤンコ中将は、日本に進駐後に一緒に行動していたマッカーサーに対して「ソ連軍は北海道に上陸し、日本をアメリカと二分する」と詰め寄ってきたのに対して、マッカーサーは「ソ連兵が自分の許可なく日本に入ったらデレビヤンコ将軍自身も含めてソ連代表部の全員を即座に投獄する」と脅してソ連軍の上陸を阻止したと主張しているが、ソ連軍の侵攻は止まることはなく、南千島を占領したのち、9月1日に色丹島、そして9月4日に歯舞諸島へ上陸してソ連領土とした。その間、北海道にはアメリカ軍は全くおらず、ようやく10月4日なって第77歩兵師団(英語版)が函館に上陸しており、ソ連の侵攻には全く対抗できていなかった。ソ連軍に占領された島のうち、択捉島、国後島、色丹島、そして歯舞群島をあわせた4つの島については日本が領有権を主張して返還を求めているが、ソ連崩壊後に4島を実効支配しているロシア連邦が自国の領土と主張して返還に応じていない。
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