関東軍への転出とは? わかりやすく解説

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関東軍への転出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)

辻政信」の記事における「関東軍への転出」の解説

二・二六事件後1936年昭和11年4月に、片倉衷少佐斡旋あっせん)によって関東軍参謀部となった兵站担当する第三課配属され満州事変経過戦術詳細に解析している。満州国協和会基本理念固めるために上京した際には、当時参謀本部戦争指導課長務めていた石原莞爾面会満蒙についての理念石原から教示された。石原との出会いは辻にとって衝撃的だったようで、これ以降生涯にわたる石原崇拝始まり、辻は石原のことを「導師」と呼び人生最大尊敬を向けることになる。9月植田謙吉大将関東軍司令官)と板垣征四郎中将関東軍参謀長)の名で、「満州帝国協和会の根本精神」なる声明パンフレットとして、石原信奉者であった辻の筆により出された。法令により直接規定する根拠がないのに協和会を共産党のように政府をも指導する機関規定し、さらに関東軍司令官を“哲人と書き大問となった。これに抗議して当時満州国総務庁長・大茂雄辞任し関東軍パンフレット必死に回収した騒動があった。 1937年昭和12年5月には満州事変後に奉天郊外の寺に安置されたまま弔われていなかった張作霖葬儀協和会の名で執り行っている。同年7月7日発生した盧溝橋事件きっかけとして国民革命軍支那駐屯軍との間に戦闘発生すると、辻は関東軍参謀長東條英機や高級参謀片倉衷らに同調して戦線拡大主張したこの際作戦主任池田純久中佐に対しては、自らが爆撃機乗って中国軍爆撃する申し出、この独断専行驚いた池田そのようなことをすれば戦闘機用いてお前の飛行機撃ち落とす話したためこれを断念している。7月末には支那駐屯軍への転出自薦し、8月新たに編成され北支那方面軍参謀となった上下問わず不良軍人狩り実施し綱紀粛正努め兵士平民から「今様水戸黄門」と評された。また、汪兆銘政権への秘密工作実行した。しかし、上司である北支那方面軍高級参謀下山琢磨大佐以前トラブル起こしていた経緯があり、11月関東軍作戦参謀転じた1938年昭和13年3月少佐進級した

※この「関東軍への転出」の解説は、「辻政信」の解説の一部です。
「関東軍への転出」を含む「辻政信」の記事については、「辻政信」の概要を参照ください。

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