関東軍との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 08:49 UTC 版)
駐満海軍部は「政論に惑わず政治に拘わらず」を美徳とし軍政に注力していたが、日本国内の陸海軍の権力闘争が満洲にも持ち込まれ、関東軍司令部は、要港部と同格という駐満海軍部の存在を問題視し、戦時指揮系統に関してたびたび対立を繰り返していた。また、ワシントン海軍軍縮条約の失効により海軍休日が終わりを告げ、列強による建艦競争が再び始まったという背景もあり、海軍内でも既に整備が進んだ満州国軍に対してこれ以上の協力をする必要性について疑問視する声が上がっていた。 そのような中、1938年(昭和13年)6月に関東軍参謀長に就任した磯谷廉介陸軍中将は、参謀本部に対して駐満海軍部の廃止を積極的に働き掛け、参謀本部と軍令部との折衝の末、ついに同年11月に駐満海軍部と臨時海軍防備隊は廃止となった。併せて、満州国海軍「江防艦隊」も満州国陸軍に編入され「江上軍」として改編され、軍事顧問も関東軍から派遣されることとなったため、海軍兵学校および高等商船学校出身者の大半は日本に引き揚げていった。これにより、以後の満州における関東軍のさらなる独走を許すこととなった。
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