戦争による被害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 15:22 UTC 版)
酷使や補修の問題に加えて、大きな打撃を与えたのが瀧山も触れている戦災による車両や設備そのもの破壊である。 この戦争により鉄道が最初に直接被害を受けたのは、1942年4月18日にアメリカ海軍の航空母艦ホーネットから発進した爆撃機B-25による、日本初空襲であるとされる。国鉄の記録では、この日常磐線の金町駅で爆弾により信号機に被害があり、4名が軽傷を負ったとある。1944年6月からは中国大陸から飛来したB-29爆撃機による北九州地区の爆撃、同年11月からはサイパン島を基地とするB-29爆撃機による主要都市に対する空襲が始まり、被害が増大した。1945年2月16日以後、敏捷な空母搭載機による空襲が始まったが、鉄道関連施設が直接攻撃される場合も多く、青函連絡船が壊滅するなど被害は部分的ではあるが甚大であった。しかし、サイパン島から爆撃目標はあまりに遠く、昼間精密爆撃による直接攻撃では、爆撃成果があまり上がらなかったため、周辺地域を爆撃して、鉄道網に類焼させる作戦に切り替えた、しかしこれも失敗したため、職員の住む住宅地を焼失させ、鉄道網の操業を止める夜間殺戮爆撃(無差別絨毯爆撃)へ作戦を変更した。 また終戦の直前には原子爆弾が広島と長崎に投下され、両市周辺の鉄道網は大損害を受けた。広島駅では職員926名中死者11名、重軽傷者201名を出している。一方、広島では被爆当日から救難列車が仕立てられ、翌日の7日宇品線が、8日に山陽本線が開通した。長崎でも被爆直後から救難列車が仕立てられ、爆心地近くまで進入して被災者を収容し諫早や佐世保の軍病院に送り込んだ。鉄道施設の多くは爆心地から比較的はなれていたため、鉄道網の壊滅は免れた。広島電鉄では被爆直後より生き残った職員(女子職員が多くを占めていた)による列車運行が再開された。 太平洋戦争による国鉄車両の損害項目損害計廃車中破小破被害率(%)機関車891 17 279 595 14 客車2228 913 461 854 19 電車563 361 36 166 26 貨車9557 2190 7367 8 合計13239 10 このように、連合軍の戦略爆撃は鉄道網を直接攻撃する作戦を継続することは無く、攻撃目標は、一般の木造住宅街とそこに住む幼老婦女子などの、戦災弱者に向かうことになる。結果、日本の鉄道網は戦争を生き残り、戦後の復興に多大の貢献をした。 1947年に運輸省鉄道総局が発表した『国有鉄道の現状』では、戦争による被害は建物が20%、機関車が14%、電車が26%、等で被害総額18億円に達した。この金額は国鉄の昭和19年 - 20年度の2年間の全収入に相当する膨大なものであった。しかし、日本の実効支配が及ばなくなった樺太は別として、終戦後に満州やドイツで見られたようなソ連軍による略奪同然の線路を含む設備の持ち去りは無かった。 1966年2月26日、参議院運輸委員会において公明党の浅井議員は当時の日本国有鉄道総裁石田礼助に対し「国鉄は戦争で壊滅的打撃を受けたが、これに対して、充分な復興措置が取られたのか」と質問した。青木慶一は「壊滅的打撃を受けた事実がない」「日本国鉄の輸送力が貧弱である現状を、その原因が米軍乃至米国に在ると称して、罪を米人に転嫁しようとしている」と批判し、ドイツ軍による組織的な輸送網の要点攻撃の対象になった国々の事例を示した後、(被害は)「ポーランドやフランスの足許にも及ばない」と述べている。 戦災、補修不備といった要因を加重していくと、終戦後間も無い状況としては下記のような状態である旨が、国鉄より説明されている。 終戦後、国鉄は戦災の応急復旧に注力し、これを達成したが、資産の戦前の状態へ復元は、わが国産業の立上がりの遅れのため捗らず、ようやく産業が復興した頃には、国鉄は公共企業体として資金的に見放されたまま今日に至っているので、緊急取換えを要する資産が今なお約一五百億円残っている。代表的なものとして、脱線の主因をなす衰耗貨車約一万五千両(全体の一・五割)と折損の危険を孕む三十三万噸の減耗疲労した軌条を挙げることができる。運転事故は終戦後激増して一時は戦前の八倍に達したが、近来四倍程度に減少した。 — 瀧山養(当時国鉄総裁室審議室調査役)「国鉄の現状と悩み真相を訴える」『世界』1954年7月 太平洋戦争による私鉄車両の損害(150社計)項目損害計廃車中破小破機関車50 23 10 17 客車54 35 8 11 電車2133 1556 220 357 貨車441 271 99 71 合計2678 私鉄での損害は表から分かるように、専ら電車に集中している。 海外の旧植民地、占領地からの引揚者が数百万人にも達し、私鉄の活動の場であった都市部にも大量に流入した一方で、このような損害を受けていたため、通勤・通学輸送のための輸送力は極度に逼迫した(この点は国鉄も同傾向であった)。その後、朝鮮戦争勃発から占領の終了の頃になると終戦直後のような混乱は一息つくものの、数年後には高度経済成長が始まり、農村部から大都市への人口移動が加速されていく。このため、大都市の旅客輸送は再び逼迫の度を増していくことになるのである。
※この「戦争による被害」の解説は、「日本の鉄道史」の解説の一部です。
「戦争による被害」を含む「日本の鉄道史」の記事については、「日本の鉄道史」の概要を参照ください。
- 戦争による被害のページへのリンク