先史時代から中世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:59 UTC 版)
「ハイリゲンシュタット (ウィーン)」の記事における「先史時代から中世まで」の解説
ハイリゲンシュタットに最初に人が住み始めたのは5,000年以上前とされている。古代ローマ期の居住跡も発見されている。1872年、この地域のものであるとされ証明されたリーメスの一部である塔の壁が発見された。古代ローマの共同墓地も聖ジェームス教会近くで発見され、6世紀頃のアヴァール人の墓地も発見されている。900年頃からフランク人が続いてやってきて、最初の教会を含む住区が、現在のプファール広場(Pfarrplatz)付近に集まっていた。彼らは農業を行い大部分はそれを糧にして、ドナウ川(現在のハイリゲンシュテッター通り付近。)でカニや魚などの漁も行っていた。ワインも作られており、ワインセラーがハイリゲンシュタッター通り沿いの丘の側から発見されている。クロスターノイブルク僧院が1250年頃、この地で葡萄園を所有していた。1304年、ヴァインハート=フォン=パッサウ司教は教区の司祭の死後、ハイリケンシュタット教区の僧院の権利を与えた。中世、ハイリゲンシュタットは豊かな地の一つであった。 1318年の文書ではこの地方随一とされた。ウィーンやハイリゲンシュタットなどウィーン郊外の町や村は15世紀から16世紀に戦争による被害を受けている。ハンガリー王マーチャーシュ1世は1484年ハイリゲンシュタットを荒廃させ、1529年にはオスマン帝国による第一次ウィーン包囲での略奪行為によって教会は大きなダメージを受けた。しかしながら、1534年にはデープリング、グリンツィング、ハイリゲンシュタットなどこの地の教区に属する住民たちの寄付によって再興が可能となった。
※この「先史時代から中世まで」の解説は、「ハイリゲンシュタット (ウィーン)」の解説の一部です。
「先史時代から中世まで」を含む「ハイリゲンシュタット (ウィーン)」の記事については、「ハイリゲンシュタット (ウィーン)」の概要を参照ください。
- 先史時代から中世までのページへのリンク