先史時代から戦前まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 22:14 UTC 版)
迫子地区からは、縄文時代の田尻遺跡や丹生遺跡、古墳時代の鉄砲塚古墳やからすぎ古墳(どちらも円墳)が見つかっている。『神鳳鈔』や『外宮神領目録』には「迫御厨」という記述があり、現在の迫子のことを指すと考えられている。古代より交通の要所とされ、現在の磯部町山原や磯部町穴川を経由して伊勢神宮方面へ至る道路の起点であった。当時の迫子は、塩屋の出郷であったとされ、わずかではあるが、白魚を獲っていた。鎌倉時代には和田氏が居住していたという伝説があり、「和田の森」が残されている。 江戸時代には迫子村として志摩国英虞郡鵜方組に属し、鳥羽藩の配下にあった。村高は284石で、製塩も行われたという。また、真珠貝や初物の白魚を上納していた。紀伊国方面との交易があり、米や稲藁を送り、肥料となるカツオの内臓を受け取っていた。 明治時代になると浜島村の1大字となり、大正時代に浜島村が浜島町になった後もそのまま大字として継承された。1919年(大正8年)には、御木本幸吉が英虞湾多徳島から大崎半島へ真珠養殖と加工の拠点を移した。
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