先史時代と中世
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ローマ時代(紀元後100年から260年頃)にオーバーゲルマニシュ=レティシュ・リーメスを防衛するために、約500人のダルマチア兵士が駐屯するリュッキンゲン城砦が現在のリュッキンゲンに建設された。またランゲンディーバッハにランゲンディーバッハ小城砦が建設された。 リュッキンゲンは、1173年に "Rukkingin" として初めて記録されている。また、ランゲンディーバッハ市区は、1226年に "Dyppach" として文献に記録されている。しかし、発掘による様々な証拠から、両市区はそれよりもずっと古いことが解っている。
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先史時代と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/15 09:41 UTC 版)
ニュルブルク城の歴史の起源は、はっきりしない。古代ローマ時代の砦に替わって築かれたという推論については、何も証明するものがない。古代ローマの貨幣の発見は、充分な証拠とは言えない。ローマ皇帝ネロの名前の綴りの"Nero"との名前の近似性から、彼が砦として築いたのが始まりだという一つの伝説まで生み出している。ほかの考えでは、古代に城の周りの土地に居住した者の墳丘墓の事実を示すものだという。 郷土史家は、アレ伯テオドリック1世(没年:1132年)がアーデナウから避難先の宮廷を置く城として、この地を選んだという見方をしている。テオドリック1世の息子のウルリッヒ・フォン・アレは、自らをニュルブルク伯と称している。あくまで推論の域を出ないが、ウルリッヒはおそらく本格的にこの城の築城に取り掛かったであろうと思われる。 アレ伯の一族が9世紀より代々領有してきたアレ城はアルテンアールにあるが、ニュルブルク城はアレ城の南方20kmに位置する。10世紀にニュルブルクに村落が出来ると、彼らはその地の領有権を主張した。歴代のアレ伯は、高地アイフェルとアール(Ahr)川の上流の地域、特にアーデナウとニュルブルクとアルテンアールの間の地域を権力基盤として、独立した勢力を築いていた。アレ伯家はいくつかの家系に分かれたが、ニュルブルクの村落についてはアレ=ホッホシュターデン家が領有することとなった。 ウルリッヒ・フォン・ニュルブルク伯とニュルブルクを結び付ける記述が最初に文献に登場するのは1169年の箇所である。彼は自らの責任においてニュルブルク城の築城を行なっている。文献は1166年の記述から始まっているが、その中でアレ城とニュルブルク城について触れた箇所は、ケルン大司教がウルリッヒとその家門の者に授与したという文脈で語られている。ウルリッヒとその子孫は自らをニュルブルクとアレの支配者であり、ケルン大司教とホーエンシュタウフェン家の封臣だと称していた。アレ=ホッホシュターデン家はケルン大司教の就任者を輩出したこともあり、アレ=ホッホシュターデン家とケルン大司教の両者の結び付きは強かった(例:コンラート・フォン・ホッホスターデン(ドイツ語版、英語版))。 1290年、アレ=ホッホシュターデン家が断絶して、ケルン大司教にニュルブルク城とニュルブルクの領有権が(アレ=ホッホシュターデン家に領有権を授与していた為に、それまでは形式的に領有権が留保され続けていたという建前的意味ではなく、実質的な意味において)移った。大司教は代官を任命して統治に当たらせた。
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