先史時代と人類の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:08 UTC 版)
石斧は雷が作る神秘的な石(雷石(英語版))と信じられていた。ビュフォンは『自然の諸時期』にて「雷石と呼ばれる石は、雷が形成し空から降ってきたと考えられていた」と記している。この旧来の考えを覆した契機は、アメリカ先住民が使う石器を観察した報告から書かれたアントワーヌ・ド・ジュシューの「雷石の起源と用途について」(1723年)やジョゼフ・フランソワ・ラフィトーの「原初の時代の習俗と比較したアメリカの未開人の習俗」(1724年)という論文だった。これらは、アメリカ先住民の生活の様子から、石斧が、人間が作成した道具だという結論を導いていた。聖書では、アダムからレメクまでに文明のすべてが完成する様に記されているが、その中に石器は出てこない。ビュフォンは石器類について、人類が作った最初の遺物と断定している。 19世紀になると、利器類など数多い出土品が蓄積された。デンマークのコペンハーゲンで博物館(現:デンマーク国立博物館)館長を務めたクリスチャン・トムセン(1788年 - 1865年)は、収集された発掘物の整理を行うに当たって石器時代・青銅器時代・鉄器時代の区分を創案し、この三区分法を『北方古代文化研究入門』(1836年)に発表した。ただし彼は、この石器時代をノアの大洪水以降と考えていた。 フランスのソンム渓谷にある砂利採掘所で、作業員たちが「猫の舌」と呼ぶ石に注目した税関長のブーシェ・ド・ペルト(1788年 - 1868年)(en)は、これをハンドアックスだと考え1839年にパリのアカデミーで発表した。彼はこの品が人工のもので、しかもノアの大洪水以前に由来する非常に古いものという考えを述べたが、その時は一笑に付された。しかし、出土品が相次ぎ、1859年のロンドン学会とパリのアカデミーでペルトが主張する旧石器時代が認められた。これは学問的意味のみならず、普遍史が記述する時よりも古い時代があったことを学会が承認した事を示している。その後も「層位学的方法」を用いた地質学と発掘作業は世界中で続き、ジョン・ラボックが1865年に提唱した先史時代を裏付ける新たな証拠が続々と発見された。 チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を発表した1859年、聖書に記述された人類の意味合いを根底から覆す内容に、主に宗教界から猛烈な批判の声が上がった。しかしこの年はペルトの旧石器時代が認められた年でもあった。進化論賛同者はものの10年で学会の大勢を占めた。1868年にエルンスト・ヘッケルは『自然創造史』にてホモ・サピエンスと類人猿の中間に位置し両者を繋ぐミッシングリングが発見されるだろうと予告したが、実は既にネアンデルタール人の化石人骨は発掘されていた。ただ、それをミッシングリングに該当させるかどうかという生物学的問題から判断が遅れていたに過ぎない。 いずれにしろ、普遍史で言う人類の発祥はよもや省みられず、アダムは歴史学の中にかろうじて残っていた「伝説」という自らの席さえ喪失した。
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