古代ローマ期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 15:30 UTC 版)
ピリッポス2世以後ギリシャの大部分統治していたマケドニア王国(アンティゴノス朝)が、第三次マケドニア戦争によって紀元前168年にローマ共和国に滅ぼされ、ギリシア全土がローマの支配下に置かれた後にはアテナイも再び重要な場所となった。口語であるコイネー(共通語の意味)に対して、文章語としてアッティカ方言が規範視され、『対比列伝』のプルタルコス、『歴史』のポリュビオスなどの著作家が現れた。表現の技法である弁論術の研究も発達し、偽ロンギヌスによる『崇高について』など文体研究についての著述も行われた。 ローマ帝国では禁教とされたキリスト教の信仰が313年にコンスタンティヌス1世のミラノ勅令によって公認されると、キリスト教文書の著述も盛んに行われるようになった。キリスト教はその始点において、コイネーによる『旧約聖書』(七十人訳聖書)と『新約聖書』を教団の文書として有していたが、正典化が行われてその範囲が確定した。キリスト教典礼のために数多くの詩(聖歌、カノン)が書かれた。一方で古代以来の悲劇はギリシアの神々に捧げる異教的なものとしてキリスト教信者が見に行くことは禁じられ、キリスト教が隆盛するにつれて、古来の詩形式のうち相当が衰微した。アレクサンドリアの図書館は火災にあい、その蔵書はすべて失われた。ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は529年にアカデメイアを初めとするアテナイの非キリスト教学校すべての閉鎖を命じ、古代以来の学芸の伝統はここに一時衰微した。
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