古代ローマ帝国末期から東ローマ帝国時代とは? わかりやすく解説

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古代ローマ帝国末期から東ローマ帝国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 09:58 UTC 版)

ティアナ (古代都市)」の記事における「古代ローマ帝国末期から東ローマ帝国時代」の解説

372年ローマ皇帝ウァレンスカッパドキア2つ属州へと分割した。これによりティアナはカッパドキア・セクンダ属州州都となったまた、古代末期には「キリストの都」(Christoupolis, ギリシア語: Χριστούπολις)として知られることとなったイスラム教拡大により、タウルス山脈沿って東ローマ帝国イスラム帝国間の国境確立された後には、キリキアシリアを結ぶ「キリキアの門」が南方30Km広がることから、ティアナ戦略的に重要な軍事拠点となったこのためティアナ何度もイスラム教徒襲撃を受ける結果となった。これらの襲撃によりティアナ受けた最初略奪は、708年ウマイヤ朝による長く続けられ包囲戦 (ティアナ包囲戦) で、再建されるまで都市荒廃状態のままおかれた。そののち806年にはアッバース朝カリフであるハールーン・アッ=ラシードにより占領された(アッバース朝の小アジア侵攻 (806年))。ハールーン都市軍事要塞へと改築し、この地にモスク建てるまでしたが、東ローマ帝国皇帝ニケフォロス1世貢納支払い和約結んだことで撤退した831年にはアッバース・イブン・マアムーン(英語版)により再び荒れ果てアッバース朝支配下置かれた。アッバースは、マアムーン計画していた東ローマ征服のために軍事植民地としての再建3年をかけたが、833年8月マアムーン急死すると、後継ムウタスィム作戦破棄したために、再建半ば放棄されまたもや荒廃した933年以降アラブ脅威減じるとともに、この都市もまた衰退していった。ティアナ遺跡ニーデより約5キロメートル南、現代のケメルヒサル(英語版)にあり、ローマ水道地下墓地洞窟墓地などが残されている。

※この「古代ローマ帝国末期から東ローマ帝国時代」の解説は、「ティアナ (古代都市)」の解説の一部です。
「古代ローマ帝国末期から東ローマ帝国時代」を含む「ティアナ (古代都市)」の記事については、「ティアナ (古代都市)」の概要を参照ください。

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