古代ローマ帝国末期から東ローマ帝国時代
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「ティアナ (古代都市)」の記事における「古代ローマ帝国末期から東ローマ帝国時代」の解説
372年、ローマ皇帝ウァレンスはカッパドキアを2つの属州へと分割した。これによりティアナはカッパドキア・セクンダ属州の州都となった。また、古代末期には「キリストの都」(Christoupolis, ギリシア語: Χριστούπολις)として知られることとなった。 イスラム教の拡大により、タウルス山脈に沿って東ローマ帝国とイスラム帝国間の国境が確立された後には、キリキアとシリアを結ぶ「キリキアの門」が南方30Kmに広がることから、ティアナは戦略的に重要な軍事拠点となった 。このためにティアナは何度もイスラム教徒の襲撃を受ける結果となった。これらの襲撃によりティアナが受けた最初の略奪は、708年のウマイヤ朝による長く続けられた包囲戦 (ティアナ包囲戦) で、再建されるまで都市は荒廃状態のままおかれた。そののちの806年にはアッバース朝のカリフであるハールーン・アッ=ラシードにより占領された(アッバース朝の小アジア侵攻 (806年))。ハールーンは都市を軍事要塞へと改築し、この地にモスクを建てるまでしたが、東ローマ帝国皇帝ニケフォロス1世が貢納を支払い和約を結んだことで撤退した。 831年にはアッバース・イブン・マアムーン(英語版)により再び荒れ果て、アッバース朝の支配下に置かれた。アッバースは、マアムーンが計画していた東ローマ征服のために軍事植民地としての再建に3年をかけたが、833年8月にマアムーンが急死すると、後継のムウタスィムが作戦を破棄したために、再建は半ばで放棄され、またもや荒廃した。 933年以降、アラブの脅威が減じるとともに、この都市もまた衰退していった。ティアナの遺跡はニーデより約5キロメートル南、現代のケメルヒサル(英語版)にあり、ローマ水道橋や地下墓地、洞窟墓地などが残されている。
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