モスクワへの道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 03:52 UTC 版)
7月3日、デニーキンは自軍をモスクワへ向けて進撃させた。しかしながら、ソヴィエトの司令部は全力を持って南部戦線の補強に努めた。7月、その軍勢は18万を数え、900門の火砲を装備した。デニーキン軍の進撃速度は鈍った。ただ、右翼のカフカース軍が北へ突破し、7月22日にカムィーシンの占領に成功したのみであった。 8月中旬、ソヴィエト軍の南部戦線は白軍勢力の撃破とドン下流域の支配、そして北カフカースへの敵主力の退却阻止を目指して反撃を試みた。 敵が反撃の準備を行っていることを察知し、デニーキン軍司令部はその阻止に取り掛かった。8月10日には、赤軍の背後からコンスタンチーン・マーモントフ将軍に率いられたサーベル兵6千、銃剣兵3千、火砲12門からなる第4ドン・コサック軍団が奇襲を加えた。戦闘において、ソヴィエト司令部はミハイール・ラーシェヴィチを司令官とする内部戦線を形成した。総勢2万3千、航空機と装甲列車を装備したラーシェヴィチ軍の迎撃を前にマーモントフ軍は瓦解し、残存勢力も戦線を離脱せざるを得なくなった。 マーモントフ騎兵隊の奇襲は、赤軍の反撃を阻止することに失敗した。8月14日、第9・10軍、セミョーン・ブジョーンヌイに率いられた騎兵隊、ヴォルガ・カスピ海艦隊分遣隊からなる特別集団は、ロストフ、北ノヴォホピョーロスク、カムィーシンに大打撃を与えた。第8軍と第13軍の一部、ヴォローネシュ補強部隊からなるヴラジーミル・セリヴァチョーフの攻撃部隊は、リースキ地区からハリコフ近郊のクピャーンスクへ移動した。この反撃により、ソヴィエト軍はハリコフとツァリーツィンへ再接近することに成功した。しかし、いくつかの反撃は北方へ推し戻され失敗した。南部戦線でデニーキン軍のモスクワ進撃を食い止めるのには丸1ヶ月かかった。
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