再接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 05:57 UTC 版)
詳細は「ピンポン外交」および「ニクソン大統領の中国訪問」を参照 米中両国は関係改善を模索していた。1969年の中ソ国境紛争で中ソ関係(英語版)が悪化すると、それは中国にとって特に重要な関心事となった。中国は西側と敵対していたが、指導層はアメリカとの関係を改善することはソ連の脅威に対してバランスを取るうえで有用であると考える様になった。周恩来総理はこの努力の矢面に立ったが、毛沢東の妨害に遭い不発に終わった。 アメリカでは中国を世界の舞台から除外することは悪影響のほうが大きいという意見があった。また、ベトナム・カンボジア・ラオスなど東南アジア諸国とのつながりが強いアメリカとの連携を強めることはソ連の影響力を弱めることにつながるという意見を持つ者もいた。泥沼化したベトナム戦争の収拾に中国を利用すべきとの見方もあり、十億の人口を誇る巨大な中国市場は大きなビジネスチャンスをアメリカにもたらすと思われていた。 民主党のマイケル・マンスフィールド上院院内総務は中国に最も関心を持っていたアメリカ人の一人であり、マンスフィールドは中国に会談の開催を呼びかけた。マンスフィールドはその案を国務長官とリチャード・ニクソン大統領に手渡した。 ニクソン大統領もアジア政策への関心は高く、ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官は中国との接触は価値があると信じていた。ニクソン大統領には中国との関係改善は1972年アメリカ合衆国大統領選挙に向けた国内世論にも良い材料になるという考えもあった。ニクソン大統領は民主党の議員が彼より先に中国訪問を行うことを怖れていた。 米中首脳の折衝はパキスタンやルーマニアが仲介地点となっていた。 1969年よりアメリカ政府は貿易や他の2国間にとって障害となる規制を中国の要望に応じて徐々に緩和した。しかし、国交正常化の作業はインドシナ半島のアメリカの行動のため中断された。1971年4月6日、若いアメリカ人卓球選手グレン・コーワンは日本の名古屋で行われた第31回世界卓球選手権においてバスを乗り間違え、中国人卓球選手から手を振られた。コーワンは中国の選手は友好的な服装で、3度の男子世界チャンピオンである中国人選手荘則棟から絹で黄山がかたどられたポートレートを贈られたと語った。この行為は2人のアスリートによる純粋で自発的なものだったが、中国はこれを外交的なカードとして利用することにした。荘則棟は2007年に南カリフォルニア大学の米中研究所でこのことについて語った。中国の情報筋によると荘則棟とグレン・コーワンの接触と二人がDacankaoで撮った記念写真は毛沢東の意思決定に影響を与えたとされる。彼はアメリカ選手を中国に招くつもりは無かったが意思を変えた。のちにピンポン外交として知られるアメリカ卓球チームの中国への招待である。1971年4月10日、1949年の共産党による中国大陸制圧後初めてアメリカ人が中国を公式訪問した。 1971年7月、キッシンジャーはパキスタンを訪問中に体調不良のため一日間、公に姿を現さなかった。キッシンジャーはある外交的な使命を帯びて北京を極秘訪問していた。1971年7月15日、ニクソン大統領は中国から訪問の要請があり、それを了承したことを電撃的に発表した。 この発表は世界に衝撃を与えた。アメリカでは最も強硬な反共主義者たちがこの決定に反対した。しかし世論はこれを受容し、ニクソン大統領の支持率はニクソン大統領が望んだ通り急上昇した。ニクソン大統領は反共主義者から信任を得たため「容共主義者」と呼ばれる怖れはなくなった。 中国でも対外政策において最左派の立場であったソ連派から反対意見があった。この動きは軍首脳である林彪によって導かれていたと伝えられている。やがて林彪はソ連への亡命の途上、国内の反対世論を封じるための謀殺として後々疑われる事となるモンゴル上空謎の墜落事故でこの世を去った。 国際社会の反応は様々だった。ソ連は米中和解に深い懸念を示し、新しい世界秩序は米ソデタントに大きく貢献した。ヨーロッパの同盟国の多くとカナダは既に中国を承認していたため歓迎の意向を示した。しかし、アジアの反応はもっと複雑だった。日本は発表の内容を15分前まで知らされておらず、アメリカが日本よりも中国を重視することを怖れて非常に強い不快感を示し、日本の政界は対中政策を巡って大混乱に陥る第一次ニクソン・ショックに見舞われた。間もなく日本も中国を承認し、本格的な貿易を再開した。韓国と南ベトナムは米中和解が共産主義国との戦いにおける支援の打ち切りを意味するのではないかと懸念した。アメリカは国交正常化の作業中を通じて、これらの国々との同盟関係が損なわれるものでは無いことを保障した。 1972年2月21日から2月28日にかけてニクソン大統領は中国を訪問し、北京、杭州、上海を回ったのち、最終日の28日に外交方針をまとめた第一次米中共同声明(上海コミュニケ)を発表した。その中で米中両国は国交正常化へ向けて連携を一層強化していくことを誓った。 アメリカは台湾は中国の一部であるとする「一つの中国」を認知し、両国は国交正常化の妨げとなる重要な台湾問題はさておき、開かれた貿易や連絡を行うことになった。 ニクソンの訪中から3か月後に行われた米軍による北爆再開と北ベトナムへの海上封鎖は中国の了解を得たとされ、ベトナム共産党書記局員で党機関紙編集長も務めたホアン・トゥンは「中国は『中国を攻撃さえしなければよい』と米国に言った」と証言している。以後、北ベトナムは中華人民共和国と対立するソ連との関係を強化し、北ベトナムと中華人民共和国との関係悪化は決定的になり、ベトナムは中国の同盟国であるカンボジアのクメール・ルージュ政権へ侵攻して中越戦争が勃発しており、米中は親ベトナム政権ではなく、民主カンプチアを承認した。また、米中はアフリカやラテンアメリカで連携してキューバと敵対し、ランド研究所のマイケル・ピルズベリーの助言などによって米中の軍事協力が推し進められることとなった。国交正常化の成果は安全保障に限定され、経済への影響は遅く、アメリカ製品の中国市場への参入にはあと10年を必要とした。
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