再挙兵までの出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 04:52 UTC 版)
信長はそのまま岐阜城には帰らず、近江の百済寺付近へと向かい、近辺の六角義賢が立てこもっていた鯰江城を攻撃した。信長は佐久間信盛・丹羽長秀・柴田勝家 ・蒲生賢秀に命じて、六角氏を城に追い詰めると、周囲に砦を築いて包囲した。 4月11日、信長は「百済寺が鯰江城を支援している」という情報をもとに、百済寺に放火して全焼させた。そして、その日のうちに帰還して、岐阜城に到着した。 4月12日、武田信玄が信濃の駒場で病死した。信玄の死は伏せられていたが、武田軍は本国の甲斐に退却した。 4月13日、義昭は二条御所を安全でないと考え、自身は内藤貞勝の丹波の城(八木城)に移り、内藤如安を二条御所に入れようと考えた。如安は「軽々しく動くことは怯懦」で義昭の評判を傷つけると意見し、一方で再び信長を敵とするべきではないと進言した。義昭はこの意見を受け入れず、槇島城に移ろうとしたが、如安が説得して取りやめになった。 4月20日、義昭は二条御所普請のため、吉田兼和の領地から人夫を徴収した。このとき、義昭は武田信玄が死去したことを知らなかった。 5月15日、信長は「義昭が再び挙兵した際には瀬田のあたりで道を塞ぐ」と予想し、大軍を湖上輸送するため、大工の岡部又右衛門を棟梁とし、佐和山で大船の建造を開始した。この船は全長30間×幅7間(約54m×約12m)、艪が100挺、船首と船尾に櫓(やぐら)百挺を備えた頑丈な船、という日本史上にも過去に例を見ないほどの巨船であった。この船は京都で返事が起きた際、岐阜から佐和山へ駆けつけ、船で一気に琵琶湖を渡ることにより、約一日分の工程を節約できた。 6月13日、義昭は安芸の毛利輝元に対し、兵糧料を要求した。だが、輝元は信長との関係から支援しなかった。
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