再挙兵と京都からの追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)
4月20日、義昭は二条御所普請のため、吉田兼和の領地から人夫を徴収した。このとき、義昭は武田信玄が死去したことを知らなかった。 5月、義昭は武田信玄や朝倉義景、顕如らに味方になるように御内書を下し、5月20日に顕如がこれに了承した。 6月13日、義昭は安芸の毛利輝元に対し、兵糧料を要求した。だが、輝元は信長との関係から支援しなかった。 6月25日、河内の畠山秋高が家臣の遊佐信教によって殺害された。これは、秋高が信長方についたものの、信教ら河内の国衆の大半は義昭を支持していたため、その対立の末に発生した出来事であった。 7月2日、義昭は二条御所を奉公衆の三淵藤英のほか、政所執事の伊勢貞興、昵近公家衆の日野輝資・高倉永相などに預けた上で、宇治の槇島城に移った。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた南山城の要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあった。そして、3日に義昭は信長との講和を破棄し、この槇島城で挙兵した。 7月9日、信長が上洛すると、日野輝資や高倉永相らは二条御所を出て降伏し、12日に最後まで籠っていた三淵藤英も降伏した。その後、信長は御所の殿舎を破却したばかりか、諸人によって御所内が略奪されるのを禁じなかった。 7月18日、信長が軍勢とともに槇島城を包囲・攻撃し、槇島一帯も焼き払った。義昭はこれに恐怖し、信長に講和を申し入れ、その条件として2歳の息子・義尋を人質に出して降伏した。 7月19日、義昭は槇島城を退去して、枇杷庄に下り、20日に河内の津田に入った。枇杷庄に下る途中、一揆に御物など奪い取られたという。 これにより、室町幕府は事実上(実質的に)滅亡した、と解釈されている。義昭が京都を追放されたことにより、朝廷を庇護する天下人の役割を果たせなくなったからである。それまで、信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、その追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けた。また、信長は毛利輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している。
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