モスクワ進軍
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「1812年ロシア戦役」の記事における「モスクワ進軍」の解説
1812年6月23日に侵攻は始まった。ナポレオンは作戦前にサンクトペテルブルクへ最後通牒を送っていたが回答を受け取ることはなく、ロシア領ポーランドへの進軍を命じた。ナポレオン率いる大陸軍は基本的に補給物資を現地での収奪に依存し、それ故に補給部隊に拘束されず迅速な機動が可能となっていた。しかしロシア戦役ではナポレオンは補給を重視し25の補給大隊を編成。現地収奪に依存しない補給体制を整えていた。補給の関係上、大陸軍は補給線が伸びきる前に決着をつける必要があり、ロシア軍の東方脱出を防ぐため国境近辺での包囲殲滅を狙った。それに対してロシア軍総司令官バルクライはフランス軍との会戦を徹底的に避け、戦力を温存したまま退却を繰り返した。これはしばしば焦土作戦の例として使われる。 バルクライ軍はドニエプル河畔へと退却しバグラチオン軍もバルクライ軍と合流するため北東へと退却した。スモレンスク西方でバルクライ軍とバグラチオン軍が合流し、ナポレオンは中央攻撃軍を指揮してスモレンスクへと急行したがロシア軍は決戦を避けて退却、ロシア軍主力の東方脱出を許す結果となった。フランス軍は当初の戦略だった国境近辺での早期殲滅に失敗、対するロシア軍は戦力の温存に成功しトルコやフィンランドから軍を引き抜き、民兵を動員し決戦準備を整えていた。遊撃隊となったコサック騎兵やロシア軍別動隊は伸びきったフランス軍の補給線や側背を脅かし、ナポレオンは後方や側面防御のため多くの部隊を割かざるをえなかった。兵力の分散に加え、強行軍に耐えきれずに、飢え、疲労、逃亡などにより脱落する兵士が続出したことにより中央攻撃軍は15万5千に激減していた。 スモレンスクの戦闘後、ロシア宮廷は決戦を避けるバルクライを解任し、8月20日にミハイル・クトゥーゾフを後任とした。バルクライの作戦の欠点を誇張したにもかかわらず、クトゥーゾフはフランス軍との交戦で無益な犠牲をロシア軍にもたらすことをすぐに理解して、バルクライの手法の多くを継承した。防護陣をボロジノに布くことにし、9月7日にはボロジノの戦いが起こった。 ロシア軍は9月8日に退却を余儀なくされ、モスクワへの道を明け渡した。クトゥーゾフは市街からの撤退も命じた。 この時までにロシア軍は、モスクワ近郊の10万人(ボロジノで打撃を受けたクトゥーゾフ軍の残存兵力に部分的な増援が加わった)を含め、全軍で904,000人を数え、兵力は1812年の戦役における頂点に達した。
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