モスクワ進軍とは? わかりやすく解説

モスクワ進軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 07:23 UTC 版)

1812年ロシア戦役」の記事における「モスクワ進軍」の解説

1812年6月23日侵攻始まったナポレオン作戦前サンクトペテルブルクへ最後通牒送っていたが回答受け取ことはなく、ロシアポーランドへの進軍命じたナポレオン率い大陸軍基本的に補給物資現地での収奪依存しそれ故補給部隊拘束され迅速な機動が可能となっていた。しかしロシア戦役ではナポレオン補給重視し25補給大隊編成現地収奪依存しない補給体制整えていた。補給の関係上、大陸軍補給線伸びきる前に決着をつける必要があり、ロシア軍東方脱出を防ぐため国境近辺での包囲殲滅狙った。それに対してロシア軍総司令官バルクライフランス軍との会戦徹底的に避け戦力温存したまま退却繰り返した。これはしばし焦土作戦の例として使われるバルクライ軍はドニエプル河畔へと退却しバグラチオン軍もバルクライ軍と合流するため北東へと退却したスモレンスク西方バルクライ軍とバグラチオン軍が合流しナポレオン中央攻撃軍を指揮してスモレンスクへと急行したロシア軍決戦避けて退却ロシア軍主力東方脱出を許す結果となったフランス軍当初戦略だった国境近辺での早期殲滅失敗対すロシア軍戦力温存成功しトルコフィンランドから軍を引き抜き民兵動員し決戦準備整えていた。遊撃隊となったコサック騎兵ロシア軍別動隊伸びきったフランス軍補給線側背脅かしナポレオン後方側面防御のため多く部隊を割かざるをえなかった。兵力分散加え強行軍に耐えきれずに、飢え疲労逃亡などにより脱落する兵士続出したことにより中央攻撃軍は155千に激減していた。 スモレンスク戦闘後ロシア宮廷決戦避けバルクライ解任し、8月20日ミハイル・クトゥーゾフ後任とした。バルクライ作戦欠点誇張したにもかかわらずクトゥーゾフフランス軍との交戦無益な犠牲ロシア軍もたらすことをすぐに理解してバルクライの手法の多く継承した防護陣をボロジノ布くことにし、9月7日にはボロジノの戦い起こったロシア軍9月8日退却余儀なくされ、モスクワへの道明け渡したクトゥーゾフ市街からの撤退命じた。 この時までにロシア軍は、モスクワ近郊10万人(ボロジノ打撃受けたクトゥーゾフ軍の残存兵力部分的な増援加わった)を含め全軍で904,000人を数え兵力1812年戦役における頂点達した

※この「モスクワ進軍」の解説は、「1812年ロシア戦役」の解説の一部です。
「モスクワ進軍」を含む「1812年ロシア戦役」の記事については、「1812年ロシア戦役」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「モスクワ進軍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「モスクワ進軍」の関連用語

モスクワ進軍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



モスクワ進軍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの1812年ロシア戦役 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS