10月政変
(モスクワ騒乱事件 から転送)
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10月政変(じゅうがつせいへん)は、1993年10月、ロシアの新憲法制定をめぐって当時のボリス・エリツィン大統領と、ルスラン・ハズブラートフ最高会議議長・アレクサンドル・ルツコイ副大統領を中心とする議会派勢力との間で起きた政治抗争である。モスクワ騒乱事件(モスクワそうらんじけん)とも呼ばれる。
- ^ Supporters of Alexander Rutskoy, the Supreme Soviet and the Congress of People's Deputies frequently used those flags. The Russian tricolor itself only remained hoisted at the White House building (see video documentary Archived July 23, 2011, at the Wayback Machine.).
- 1 10月政変とは
- 2 10月政変の概要
- 3 関連項目
モスクワ騒乱事件
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「ベールイ・ドーム」の記事における「モスクワ騒乱事件」の解説
ソビエト連邦の崩壊後、引き続きロシア最高会議ビルとして使用されていたが、エリツィン大統領とアレクサンドル・ルツコイ副大統領、ルスラン・ハズブラートフ最高会議議長ら保守派との間の対立が激化し、1993年反エリツィン陣営は最高会議ビルに立て籠もった。エリツィンが8月クーデターの際に籠城した最高会議ビルは反対派の牙城となり、エリツィン側が攻撃するという皮肉な構図となった。エリツィンは戦車部隊に命じ、最高会議ビルを砲撃して鎮圧した(10月政変)。 事件後、改修されロシア連邦政府の首相官邸、行政庁舎となった。
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モスクワ騒乱事件
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「ルスラン・ハズブラートフ」の記事における「モスクワ騒乱事件」の解説
このような状況で1992年6月、自由ロシア人民党(党首、アレクサンドル・ルツコイ副大統領)ロシア民主党(党首、ニコライ・トラフキン人民代議員)、「刷新」(代表、アルカジー・ヴォリスキーロシア産業・企業家同盟会長)の中道三派は、政治ブロック「市民同盟」を結成し議会内で一大勢力を築き、エリツィン政権の急進改革派を辞任に追い込んだ。ハズブラートフは、ルツコイともに反エリツィンの立場で提携し、エリツィンとロシア議会の対立は激化していった。 ハズブラートフとエリツィンの対立を決定的にしたのが、1993年9月の彼のテレビ発言だった。「大統領は当てにできない。どうしようもないどん百姓だ。(人差し指で喉をたたきながら=酔っ払いのジェスチャー)これさえあれば、あいつはどんな大統領令にも署名する」。このハズブラートフの発言はエリツィンの逆鱗に触れ、9月21日に訪日を直前に控えた彼は、「大統領令1400号」を公布。超法規的に現行憲法を停止した上でロシア人民代議員大会及び最高会議を解散し、議会を中心とする反エリツィン陣営の除去に取りかかった。 ハズブラートフは、最高会議の緊急会議を召集し、ルツコイに大統領全権を付与し、10月3日、最高会議ビルに立てこもって抵抗した。しかし、8月クーデターの再現とはならず、ゲンナジー・ブルブリスの指揮のもとロシア政府軍の圧倒的な攻撃により、10月4日抵抗は失敗した(モスクワ騒乱事件、10月政変とも)。ルツコイ、ハズブラートフは逮捕され、レフォルトヴォ刑務所に収容された。
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