モスクワ・バクー時代
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「アレクサンドル・ミャスニコフ」の記事における「モスクワ・バクー時代」の解説
1903年に6年制神学校を5年で卒業すると、翌1904年8月にモスクワのラザレフ東方言語学院(ロシア語版)に進んだ(同級生にヴァハン・テリアン、ツォラク・ハンザジャン (hy)、ポゴス・マキンツャンらがいた)。在学中からウラジーミル・レーニンやカール・カウツキー、カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス、フェルディナント・ラッサール、ドミトリー・ピーサレフ、アレクサンドル・ゲルツェン、ニコライ・チェルヌィシェフスキー、ヴィッサリオン・ベリンスキー、ニコライ・ドブロリューボフの思想に触れ、学生地下組織にも参加。ロシア第一革命中のゼネスト (ru) やモスクワ十二月蜂起(ロシア語版)にも参加している。 1905年夏にはアルメニア革命連盟支持者として、ロシア社会民主労働党のセルゲイ・ルカシンと紙上で論争を行っている。しかし、これがきっかけでミャスニコフは、翌1906年6月に社会民主主義者に転向した(その後、ミャスニコフは1910年代までロシア社会民主労働党とアルメニア社会民主労働者協会 (hy) の両党に属した)。 ミャスニコフは同年にラザレフ学院を卒業してモスクワ大学法学部(ロシア語版)経済学科に進んだが、11月に逮捕されてバクーに追放され、現地のボリシェヴィキ組織で活動。ステパン・シャウミャン、ボグダン・クヌニャンツ (hy)、アリョーシャ・ジャパリゼらの革命家と知遇を得た。バクーではバフシ・イシュハニャン (hy) やダヴィト・アナヌ (hy) ら現地のアルメニア社会民主労働者協会員と協同して出版活動を行ったが、後に彼らとは決別している。その後、1908年9月にモスクワへ戻って1911年5月にモスクワ大学法学部経済学科を卒業し、弁護士資格を得た。 同年10月から翌1912年9月まで徴兵されて少尉となり、1912年から1914年まではモスクワで弁護士助手や教師、文筆家として暮らしていた。1913年12月にはモスクワ工業博物館(ロシア語版)でアルメニア問題(ロシア語版)についての演説を行っている。
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