モスクワ制圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 07:23 UTC 版)
「1812年ロシア戦役」の記事における「モスクワ制圧」の解説
9月14日、ナポレオン軍はフョードル・ロストプチーン(英語版)市長(総督。セギュール夫人の父)によって全てのライフラインの供給を止められたモスクワ市街に入城した(ナポレオン自身は翌15日朝に入った)。この時点の大陸軍の兵力は11万であった。ナポレオンはロシアがモスクワを焼き払うと思わず、物資や食糧が手に入ることを予期していた。またアレクサンドル1世がパクロンナヤ・ガラ(降伏の丘)で降伏すると期待していたが、入城してみると市はもぬけの殻であった。その晩、市内各所で火の手が上がり、9月14日から18日(ロシアの旧暦では9月2日 - 6日)まで3日にわたり燃え続ける大火となり、大半の建物が木造だったモスクワは、多くの貴重な文化財や建造物も焼き尽されて焼け野原となった。市内で捕虜にしたロシア兵の尋問記録から、火災はロシア軍の組織的な放火だったとされている。 フランス軍は冬を前にロシアの打倒と食糧の入手のいずれにも失敗し、ナポレオンは進退に窮した。3度に及ぶ和議提案も空しく、フランス軍は灰燼に帰したモスクワ市街で無為な時間を過ごした。さらにフランス軍をモスクワ市街から追い出そうとするロシア軍の展開を受け、10月19日、ナポレオンはモスクワからの退却を開始した。ナポレオンはモスクワ撤退の際、モルティエ将軍にクレムリンや公共建造物の爆破を命令したが、大雨とロシア兵の到着のため、3つの塔、城壁の一辺、兵器庫の一部の破壊にとどまった。 ナポレオンは後に「あれより2週間早くモスクワを発っていれば、タルティノ近郊に布陣するクトゥーゾフ軍を撃破できたであろう」と回顧している。モスクワ制圧から退却するまでの1ヶ月の間に兵力はさらに減少。退却時の兵力は10万になっていた。
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