モスクワ公国との闘争
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「トヴェリ大公国」の記事における「モスクワ公国との闘争」の解説
「ru:Борьба Москвы и Твери」も参照 1304年にウラジーミル大公アンドレイ(上記のコストロマ公アンドレイ)が死亡した後、トヴェリ公ミハイルは、モスクワ公ユーリーと、ウラジーミル大公位をめぐる闘争を開始した。闘争はペレヤスラヴリ・ザレスキー、コストロマ、ゴロデツ、ニジニー・ノヴゴロド等の北東ルーシ(ウラジーミル大公国領域)の諸都市、またノヴゴロドの争奪戦となった。1305年、1308年にはミハイルはモスクワへも進軍するが、これを陥とすことはできなかった。また、この闘争間には教会勢力とジョチ・ウルスも関与するものとなった。 1317年、ミハイル率いるトヴェリ公国軍はボルテネヴォの戦い(ru)で、モスクワ=ジョチ・ウルス連合軍を破るが、翌年ジョチ・ウルスの首都サライに召喚され、殺害された。ミハイルの死後、トヴェリ公国領は4人の息子たちに分割相続された。すなわち、長男のドミトリーがトヴェリを、アレクサンドルがホルムとミクリンを、おそらくコンスタンチンがドロゴブージを、ヴァシリーがカシンを受領し、それぞれの公となった。一方、1319年、勝ち残ったモスクワ公ユーリーはウラジーミル大公位に就き、ジョチ・ウルスのハンに支払う貢税をトヴェリの諸公から徴収しはじめた、しかしこの徴収金はジョチ・ウルスに送られることはなく、トヴェリ公ドミトリーはこの事態をジョチ・ウルスに訴えて、1322年に徴収権を自身のものとする勅書(ヤルルィク)を得ている。さらにユーリーの死後の1326年、ミハイルの子の1人アレクサンドルはウラジーミル大公位を得た。 「トヴェリ蜂起」も参照 1327年、トヴェリはジョチ・ウルスの君主ウズベク・ハンの従兄弟(モンケ・テムルの孫、トデゲンの子にあたる)、チョルハン(ru)の支配に対する反乱を起こした。トヴェリの人々はチョルハンを捕らえて殺害するが、モスクワとスーズダリの兵をも従えた5万人の軍兵による報復攻撃を受けた。トヴェリ軍は破れ、トヴェリ公アレクサンドルはプスコフへと逃れた。ウラジーミル大公位はスーズダリ公アレクサンドル(ru)の手に渡り、ノヴゴロド、トヴェリはモスクワの手中に収まった。トヴェリ公位はモスクワ公ユーリーの娘ソフィヤを妻とするコンスタンチン(トヴェリ公アレクサンドルの弟)に与えられた。その後、1337年にトヴェリを追われていたアレクサンドルはトヴェリに帰還し、トヴェリ公位はコンスタンチンからアレクサンドルへ譲渡された。しかしアレクサンドルは1339年にモスクワ公(兼ウラジーミル大公)イヴァン・カリターの讒言によってサライに召喚され、息子フョードルと共に殺害された。死後はコンスタンチンが再度トヴェリ公となり、1345年まで統治を行った。 この期間に、アレクサンドルの息子フセヴォロド(ru)がホルムを受領しホルム公国が、またミハイルがミクリンを受領しミクリン公国が成立している。後に、これら分領公国の公たちは、トヴェリ公位をめぐる、数世代にわたる継承戦を繰り広げることになる。
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