モスクワ公国との闘争とは? わかりやすく解説

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モスクワ公国との闘争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:51 UTC 版)

トヴェリ大公国」の記事における「モスクワ公国との闘争」の解説

ru:Борьба Москвы и Твери」も参照 1304年ウラジーミル大公アンドレイ上記コストロマアンドレイ)が死亡した後、トヴェリ公ミハイルは、モスクワ公ユーリーと、ウラジーミル大公位をめぐる闘争開始した闘争ペレヤスラヴリ・ザレスキーコストロマゴロデツニジニー・ノヴゴロド等の北東ルーシウラジーミル大公国領域)の諸都市、またノヴゴロド争奪戦となった1305年1308年にはミハイルモスクワへ進軍するが、これを陥とすことはできなかった。また、この闘争間には教会勢力ジョチ・ウルス関与するものとなった1317年ミハイル率いトヴェリ公国軍はボルテネヴォの戦い(ru)で、モスクワジョチ・ウルス連合軍を破るが、翌年ジョチ・ウルス首都サライ召喚され殺害された。ミハイル死後トヴェリ公国領は4人の息子たち分割相続された。すなわち、長男ドミトリートヴェリを、アレクサンドルホルムとミクリンを、おそらくコンスタンチンドロゴブージを、ヴァシリーカシン受領しそれぞれのとなった一方1319年勝ち残ったモスクワ公ユーリーウラジーミル大公に就きジョチ・ウルスハン支払貢税トヴェリ諸公から徴収しはじめた、しかしこの徴収金はジョチ・ウルス送られることはなく、トヴェリ公ドミトリーはこの事態ジョチ・ウルス訴えて1322年徴収自身ものとする勅書ヤルルィク)を得ている。さらにユーリー死後の1326年ミハイルの子1人アレクサンドルウラジーミル大公位を得た。 「トヴェリ蜂起」も参照 1327年トヴェリジョチ・ウルス君主ウズベク・ハン従兄弟モンケ・テムルの孫、トデゲンの子にあたる)、チョルハン(ru)の支配対す反乱起こしたトヴェリ人々はチョルハンを捕らえて殺害するが、モスクワスーズダリの兵をも従えた5万人の軍兵による報復攻撃受けたトヴェリ軍は破れトヴェリ公アレクサンドルプスコフへと逃れたウラジーミル大公位はスーズダリ公アレクサンドル(ru)の手渡りノヴゴロドトヴェリモスクワの手中に収まったトヴェリ公位はモスクワ公ユーリーの娘ソフィヤを妻とするコンスタンチントヴェリ公アレクサンドルの弟)に与えられた。その後1337年トヴェリ追われていたアレクサンドルトヴェリ帰還しトヴェリ公位はコンスタンチンからアレクサンドル譲渡された。しかしアレクサンドル1339年モスクワ公(兼ウラジーミル大公)イヴァン・カリターの讒言によってサライ召喚され息子フョードルと共に殺害された。死後コンスタンチン再度トヴェリ公となり、1345年まで統治行ったこの期間に、アレクサンドル息子フセヴォロド(ru)がホルム受領しホルム公国が、またミハイルがミクリンを受領しミクリン公国成立している。後に、これら分領公国の公たちは、トヴェリ公位をめぐる、世代にわたる継承戦を繰り広げることになる。

※この「モスクワ公国との闘争」の解説は、「トヴェリ大公国」の解説の一部です。
「モスクワ公国との闘争」を含む「トヴェリ大公国」の記事については、「トヴェリ大公国」の概要を参照ください。

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