モスクワ勝利の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 06:01 UTC 版)
「クリコヴォの戦い」の記事における「モスクワ勝利の原因」の解説
モスクワの勝因としては、会戦の起こった場所には河川が縦横に流れており、草原での戦闘を得意とする騎馬民族タタールの兵に対して戦術的に有利だった点があげられる。また、その東にはうっそうとした森林が広がっており、外部の攻撃から守る役割を果たしていた。 モンゴル人支配下のロシアで台頭し、モスクワのライヴァルであったトヴェリ公国は、経済的にも軍事的にもモスクワに比肩する力はすでになく、リトアニアやタタールとの不安定な同盟に依存していた。クリコヴォの戦いに先立つ1375年、モスクワはトヴェリ公ミハイルを破り、モスクワ大公を「兄」として敬うことをトヴェリ公国に認めさせ、タタール軍との戦闘の際には共同作戦をおこなうことを約束させている。 また、モスクワの歴代の公・大公は、ロシア正教会に広大な土地を寄進し、正教会もその支援を目に見えるかたちで表そうとして府主教座をモスクワにうつした。ロシア正教会は、ロシアにおいていわばロシア国家に先んじて一大統一組織となっていた。この戦いでモスクワが勝利した原因としては、正教会の援護が果たした役割も見逃せない。 さらに、このころのジョチ・ウルスは長期の内紛に悩まされていた。1357年のベルディ・ベクの父親殺しによるハン位奪取以来、混乱に陥り、ロシアの内政に対し組織的に介入する力を相対的に失っていたが、ドミートリーは、この機を逃さなかったのである。
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